Upside down その8


それからすぐに、無事だった荷物を手にそそくさと図書館を後にした私たちは、コーヒーショップで
休憩してから帰るという事になって、既に日の暮れた駅前に向かっている。

「すっかり暗なってしもたなー。」
繋いだ手を一瞬だけ離して腕時計を確認すると、高波さんの手はすぐに私を求めて戻ってくる。
「そうね。お店、空いてる席があると良いけど・・・」
6時を過ぎるとどのお店も大人だらけになって入れなくなってしまう。
駅に着くまでに入れるお店があることを祈るしかない。

「お! 氷音先輩、あっこ空いてるんちゃう!?」
道路を挟んだ向かい側のお店の、道路に面した席が空いているのに気づいた高波さんは、私が返答を
返すよりも先にぐいと私の手を引いて走り出した。
・・・その勢いで、一瞬身体が浮いた気がした。

 

「はー。ギリセーフやったなー。間に合うてよかったー。」
席を確保するため先にテーブルについていた私の元へ、レジに並んでもらった高波さんがトレーを手に
笑顔で戻ってきた。
窓に据え付けられたテーブルは窓の外に向かって椅子が並んでおり、図書館で座っていた時と同じように
高波さんが私の右の椅子に腰掛ける。
ここに座っていると、すぐ目の前を人の波が通り過ぎて、自分が動物園の動物になったような気がする。
別に誰もこちらを気になんてしていないのに。

「はーい、氷音先輩。コーヒー、ブラックで飲めるやなんて大人やなぁ。ウチは飲まれへんわ。」
ふわりと酸味を含む香ばしい湯気を立てるコーヒーが私の前に置かれ、小さくありがとうと告げる。
「もともとはね、イメージなの。 柔らかく光差す窓辺で小説読みながら飲むイメージに憧れてね。」
最初は憧れだったのに、今ではすっかりブラックでしか飲めなくなってしまった。
「そぉなんや〜。 なんや氷音先輩らしいなぁ。今その画ぇ見えたわ。」
嬉しそうに微笑みながら、高波さんはいつものアイスロイヤルミルクティにガムシロップのポーションを
2つ流し込み、わしゃわしゃと派手にかき回す。

「はー。勉強なんかしたから喉渇いてしもたわぁ。」
忙しなく動くストローを1秒でも早く吸いたそうな高波さんが、独り言のように呟く。
「そうね。図書館は乾燥しがちだしね。」
一足先にカップを傾けた私は高波さんの横顔に向かってそう答えた。
当たり障りのない、飲みやすい苦味がするりと胃に流れ込んで小さく溜息が出る。

「そぉやー。それに、頭使こたらなんぞ甘いもん食べたなるやんなぁ?」
ようやくストローを咥えながら手元に寄せたミルクレープは、きっとそういうことなのだろう。
「えぇ、糖分は脳のエネルギー源と言われてるしね。」
実際には、糖分を燃焼させる為にバランスよく栄養素が必要だけど、キラキラと瞳を輝かせる高波さんが
私に期待している答えを裏切らない為にそう返答した。
「せやんなー! せやったらぁ、えらい勉強したし、食べてえぇよね?えぇよね?」
私を見上げる笑顔が眩しすぎて、掛けようとする言葉が喉に詰まる。

「買ってきた時点でそのつもりじゃない。 自分へのご褒美でしょ?」
思っていたのと違う言葉が出て、ドクンとひとつ、鼓動が嫌な音を立てた。
口元が微笑んでなかったら、こんなのただのイヤミだ。
慣れない事を言おうとするからこんな事になるのよ・・・

「当たり前や。ご褒美無しで頑張れるほど、ウチは安ないで〜。」
ミルクレープの先端部分を頬張りながら、ご満悦の表情を浮かべる高波さんは気にも留めず得意気に頷く。
「ふふ。なにそれ。」
暗く沈みかけた私の気持ちを、その挙動が救い上げてくれた。
高波さんのドヤ顔に、思わず笑ってしまう。

今のは、きっと高波さんじゃなかったら嫌な気持ちになったに違いない。
でも、彼女はちゃんと返してくれて、そのうえ私に笑顔までもたらしてくれた。

やがて店内は満席となり、席に着く人たちが次々と入れ替わっていく。
そんな時の流れから切り離されたように、ミルクレープを口に運ぶ高波さんの笑顔が私にはスローに見えた。

 

 

 

 

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