Incommensurate その11
5月 31日 (金)
「トーコ・・・」
部屋のドアがノックされたので、入室を許可すると入って来たのはパジャマ姿のジェシーだった。
まぁ、お店の営業時間中に家にいるのはジェシーと私だけだから、他に誰が来るはずも無いのは当たり前の事。
ジェシーが日本にいる最後の日なんだから店を休む、とかいう考え方はあの家族に無いのだろうか。
それからウィットフォードさんは一足先にアメリカへ戻っていて、明日ロスの空港へ迎えに来るらしい。
「ジェシー。」
勉強机に向かっていた私は、傍にやって来た、ただでさえ背の高いジェシーを座ったまま見上げる。
「トーコ、10か月間お世話になったね。 ホントにありがとうございました。」
私を抱き締め、ジェシーは何度も頬を擦り付ける。
初めて会った時と同じ青リンゴの香りがするジェシーに、10か月間の思い出がフラッシュバックする。
ジェシーは、明日の午後の飛行機でアメリカに帰る。
土曜日とはいえ学校はあるから、彼女と一緒に居られるのは明日の朝まで。
今日の午後通りすがった客間には、来る時に引いてきたキャリーバッグが一つだけ残っていた。
日本で買った日用品や雑貨、洋服などのうち使えそうなものは私が引き取る事になった。
多分、不用品はすぐに処分する性格の私にとって、それらは初めての『捨てられない物』になる気がする。
「んーん。 こちらこそ、ジェシーに出会えてよかった。」
心からの言葉を述べ、私もジェシーの背中に腕を回す。
このハグにも、いつの間にかすっかり慣れてしまった。
「トーコ、今日は・・・トーコと一緒のbedで寝たいね。」
思ってもいなかった申し出に、私の心臓が大きく跳ねた。
甘えた声でジェシーにお願いされたら、私に断るなんて選択肢は浮かんでこない。
「・・・うん。 いいよ。」
抱き合ったままだから、今の動揺しきった表情を見られなくてよかった。
ほっとしたのも束の間、ジェシーが身体を離して微笑むものだから、私は慌てて冷静を装う。
「トーコ、何時に寝るね?」
ちらりと机の上の時計に目を走らせると、時刻は21時50分。
寝るには早いけど、ジェシーと一緒に寝られるなんて嬉しい。
修学旅行みたいに、ずっと喋ってたりするのかな。
それとも、好きな人同士だから、手を繋いだまま寝たりするのかな。
「あ、えと、もう寝てもいい、時間、かなぁ・・・」
危うく妄想に耽りそうになった自分を抑え込み、なんだかあやふやな返答を返してしまう。
「 Ok , 善は急げね。 早く片付けて寝るね! トーコ、 hurry up !」
楽しそうに急き立てるジェシーに、私は小さく悲鳴を上げながら机の上に広げていた参考書やノートを閉じて
端の方に積み上げる。
その様子がおかしいのか、ジェシーの笑顔が子供のように弾ける。
「はい、終わったよ! じゃ、寝よっか。」
「トーコ、やればできる子ね。 Ok!」
「失礼ねー。 ちゃんとできますよー!」
もー、と笑いながら照明を落とし、私はベッドの奥側に入ってジェシーが入れる隙間があるか確認する。
シングルだから狭いけど、何とかベッドは私達を受け入れてくれた。
夜の帳に包まれた私達は、お互いの呼吸が届くような距離で見つめ合う。
月明かりが入ってきているだけにしては、ジェシーの白い肌がはっきりと浮かび上がっているように見えて、
私の視線は吸い込まれてしまったままどこへ行く事も出来ない。
10か月も一緒に暮らして、6日だけ恋人でいられて。
でも、一緒に寝られるのはこれが最後・・・
緩んだはずだった私の表情の変化を感じ取ったのか、ジェシーがもそりと布団の中で私の腰に腕を回して
二人の距離を縮める。
「トーコ・・・ そんな顔したらダメね。」
距離が近すぎて、私の視界にはジェシーの小さな顔すら収まりきらない。
「だって・・・」
いつから私はこんなに泣き虫に戻ってしまったんだろう。
小学生の頃は、確かよく泣いていた。
小学校を卒業する時にも、公立中学へ進学する皆とはもう会えなくなるんだと泣いた気がする。
あぁ、そうだ。
そのきっかけをふと思い出して大きく瞬きをすると、滲み始めていたジェシーの顔が元に戻る。
姉がお店を継ぐことになって、親に一線を画されてしまってから、私は泣かなくなったんだった。
「トーコ、何か考えてるね?」
いつの間にか私の髪を優しく撫でながら、心配そうにジェシーが問いかけてくる。
「・・・寂しい。 ジェシーがいなくなったら、また私は一人になっちゃう。」
「一人? 違うね。 トーコは一人じゃないよ、家族がいるね?」
「そうじゃなくて・・・ なんて言ったらいいのかなぁ。」
言葉を探している間も、ジェシーの温もりと掌の優しさが、私の心を包み込んでくれているみたい。
真意が伝わらないようにと探した言葉を、なるべく明るく、私は吐き出す。
「私が作るご飯を食べてくれる人が、いなくなっちゃうって事、かな。」
照れ隠しの微笑みが、ジェシーにはどう映ったのだろうか。
口角が引き攣りそうな、無理矢理な笑みを解くかのように、ジェシーの唇が重なる。