9月 2日 凶雲 18:08
side 路美花 place 図書室前
プラスチックでできているはずの四肢が、まるで本物のように滑らかに動いて階段の陰から姿を現す。
見慣れたはずの模型が何の仕掛けも無く動いているという事実に、僕は目が釘付けになった。
しかし背後からの足音にハッとなり、挟まれないよう咄嗟に左へ走り抜ける。
人体模型と校長犬は、図書室の入り口を背にじりじりと僕の方へと歩を進める。
破滅へのカウントダウンでも刻もうというのか、ゆっくりとそれらは距離を詰めてくる。
校長犬はともかく、人体模型は何とかできるかもしれない。
全力で走った事で乱れた呼吸を、腹式呼吸で落ち着かせながら僕は構えを取る。
複数の敵と戦うときは、なるべく背後を取られないように立ち回らなければならない。
最初に遭った空飛ぶ髑髏と同じように簡単に行くとは、思えない。
不用意に飛び込む事を躊躇して攻撃の機会を逸した僕に、先程飛んで来た物が何だったのかを理解する機会が
訪れた。
でもそれが、喜ばしい事ではなかったと後悔する事になる。
人体模型が、自らの胸についた扉をおもむろに開く。
彼の教材としての本来の機能は、筋肉の構造を示しているだけではなく、人体の構造を精密に再現している
訳だから、当然内部にもパーツが存在しているのだ。
ジャケットの内側を探るように、彼は扉の陰へ右手を滑り込ませた。
そして取り出した物を、振り被って僕の方へ、投げた。
・・・はずだった。
綺麗なオーバースローフォームから繰り出されるはずだった『それ』は、手から放つタイミングを誤ったのか
自らの足元へ叩きつけてしまう結果となり、さっき聞いたのと同じような破裂音が廊下に弾け散った。
投げた直後に、彼が小首を傾げたように見えたのが気のせいでなければ、わざとではないようだけど・・・
何してるんだ・・・?
感じた疑問は、一瞬にして吹き飛んだ。
校長犬が、床で潰れた『それ』に噛み付いたのだ。
液体が漏れ、半分ひしゃげた『それ』を咥え、くちゃくちゃと音を立てながら何度も食らいつく。
そう、彼が投げていたのは、ただの模型のプラスチックのパーツなんかじゃなかったんだ。
その内側に詰まっているのは、血肉を具えた、本物の、内臓。
唐突に、吐き気が込み上げてくる。
辺りに漂う生臭い鉄の匂いと、口の周りをべったりと赤黒いもので汚しながら『それ』を貪る獣の姿。
内臓を失っても無表情を貫く彼の空虚さ。
一切合財が僕の頭とお腹の中をぐるぐると廻って、濃い紫色の渦を形成していく。
胃の中で暴れる毒気を堪える為に両手で口を押えながら、僕はその場に蹲ってしまう。
分かってるのに。 今が普通じゃないって。
分かってるから、この状況を理解してしまう。
分かりたくないよ、こんな悍ましい出来事。
「江曽!」
汚れの悪夢に切り込んで掛けられた声を、僕はまるで一条の光が差したように感じた。
しゃがんだ姿勢から振り返って見上げれば、薄暗い蛍光灯の元でも輝きを放つ金色のサイドテール。
パタパタと続く複数の足音も、いつも聞き慣れているものだ。
あぁ、たったそれだけの『いつもの』事なのに、どうしてこんなに、ほっとするんだろう。
「な、なに・・・これ・・・」
辿り着いたクイーンさんが、目の当たりにした光景に絶句する。
それでも、僕が陥ってる状況を見て瞬時に理解したのか、クイーンさんはポーチから何かを取り出した。
「クイーン、さん?」
立ち上ってクイーンさんの横に並んだ僕が呼びかけると、手に握っていたそれがしゅっと伸びて60センチ程の
棒になった。
「あたしが東京にいた頃、結構夜遅くまで街で踊ったりしてたんだけど。」
感触を確かめるように、クイーンさんは何度か素振りして小さく口元だけで微笑む。
「か弱い乙女は、自分で自分の身ぐらい守れないとね。」
こんな異様な雰囲気なのに笑える余裕があるなんて、やっぱりクイーンさんはすごい人なんだ。
目の前から一瞬意識が逸れた事で、僕の口元からは吐き気ではなく苦笑が零れ落ちた。
「使ったこと、あるんですか?」
「無理やりされそうになった回数だけね。」
二人同時に視線を合わせてから、僕達は敵に向かって駆け出した。
「てやーっ!」
食事中の校長犬は無視し、走る勢いを利用して繰り出した後ろ回し蹴りが人体模型の頭部に突き刺さった。
まともに僕の蹴りを食らって図書室の扉に叩きつけられた人体模型に、クイーンさんが警棒で追撃する。
鮮やかに頭部を捉えた一撃だったけど、振り下ろした警棒がむしろ弾かれていたように見えた。
ダンスが上手でも、腕っぷしはそんなに強くないんだろう。
手応えが無かったこと感じ取ったクイーンさんが、僕を振り返って苦笑いを浮かべた。
二人から攻撃を受けてふらふらになった人体模型の反撃の拳は空を切り、避けるまでも無い。
だが、僕は忘れていた。
足元で食欲を満たしていた獣が、ただの獣ではなく『怪物』だという事を。
思い出したように飛び掛かってきた右後方からの一撃は、僕の視界には入っていなかった。