9月 1日 17:00
side 守口先生
「では、守口君。 明日の留学説明会の件、手筈通りよろしく頼んだよ。 くくっ・・・」
「畏まりました、校長。」
校長からの電話を切り、私は大きな溜め息をつく。
私は、教師として、人として、このような事を是とは思わない。
どこへとも知らぬ土地へ我が校の生徒を留学させるだなんて。
しかも・・・
それが化け物の指図だなんて。
今も、あの化け物はきっと校長の傍にいて、何か悍ましい悪事を吹き込んでいるに違いない。
我ながら情けない事だが、それを止める事も、抗する事も、私には出来はしない。
私は弱い人間だ。
権力に逆らう事も、暴力に逆らう事もできない、自分が大事なだけの人間なのだ。
綺麗事だけでは何事も解決しない事など、嫌というほど思い知って生きて来たんだ。
なのに、いや、だからこそ。
「あなた、明日は校長先生と打ち合わせだったわよね。」
電話が終わったのを見越してか、妻が明日の予定を確認してきた。
「あぁ。 食事も済ませてくるから、夕食はいらないよ。」
「はいはい。 飲み過ぎないでね。」
これが終わったら、私は来年から教頭になれるのだ。
家族の為に、私自身の為に。
結局私は、大切な教え子を、犠牲にするのだ・・・
妻が部屋を出て、私は一人、夕立の来そうな夏の積乱雲を窓越しに見上げてまた溜息を一つついた。
9月 2日 9:21
「ふふ、守口先生。 おはようございます。」
校長の指示通りに校内の明かりをつけて外に出た私を、そいつは校門の所で待っていた。
「・・・空知か。」
自転車から降りて通用口を開けながら、私はそいつを一瞥する。
相変わらず、人を小馬鹿にしたような目つきと、口元が不快極まりない。
「今日の留学説明会、よろしくお願いしますね。」
「私は説明会について、校長から学校を開けておく以外の指示はされていない。」
開けた通用口の外側で、わざわざそこを塞ぐ位置に立った空知を睨みつけ、私は視線だけで退くよう威圧する。
「当然でしょう。 先生に妙な気を起こされては困りますからね。」
くっくっと、顔を半分隠すような長い前髪の奥で、虫唾の走りそうな忍び笑いが漏れた。
空知が言っているのは、おそらく私が職員室に入った時に感じた気配の事と関係があるかもしれない。
配電盤を操作するために入った職員室は、私以外の誰かがいるような気がしたのだ。
校長が先にいたのなら挨拶くらいしに来るはずだが、そうではない、何かもっと得体の知れない気配だった。
それが何なのか、出来れば確かめたくは無かったので、私は指令だけをさっさと済ませ出て来てしまった。
「・・・それより、岩佐は一緒じゃないのか。」
化け物の喜びそうな会話を避ける為、私は話題を変える。
いい加減、そこをどいてくれないだろうか。
「9:45に商店街で待ち合わせなの。 下まで、自転車の後ろに乗せて行って下さらない?」
私の為にというよりは、自転車が外に出る為に、空知が道を譲る。
「自転車の二人乗りは道路交通法違反だ。 生活指導も担当している私が破る訳には行かなかろう。」
自転車を跨ぎながら、背中越しに空知を一瞥する。
法律の話なんて建前だ。
化け物を背中に感じながらのサイクリングなど、冗談じゃない。 願い下げだ。
「まぁ、つれません事。」
人を舐めきった態度の後に続くあの下卑た笑いを聞きたくないので、電動アシストをオンにした自転車を軽い
踏み込みから発進させる。
・・・くそ。
もう少しすれば、商店街の店も開き始めるはずだし、酒屋でビールでも買って、さっさと帰ろう。
苛立つ気持ちを楽しみにすり替えて、私は夏の熱風と蝉の鳴き声に見送られながら坂を下る。
9月 2日 9:49
・・・ん?
酒屋の前で開店を待つ私の横を、特徴的な少女が通り過ぎて行った。
見間違えるはずも無い、この町では余りにも目立つあの金髪。
今年、我が校に転校してきた、2年の久院 清良。
東京にいた頃はやんちゃだったと聞いていたので心配していたが、特に素行が悪いという訳でもなく、最近は
新聞部に出入りしているのも見掛けた。
なんだかんだで友達付き合いもあるようだし、若者は適応能力が高いという事だろうか。
久院は脇目も振らず、商店街の学校寄り出口へと向かっていく。
休みの日に教師が話し掛けるのは無粋だし、私に気付く様子も無かったので放っておこうかとも思った。
だが、それは出口付近に空知と岩佐の姿を捕えてしまった事で、改めざるを得なくなった。
久院はまっすぐその二人の方へ向かい、何やら少し会話をして空知と岩佐を見送ると、しばらくその場に
立ち尽くしたのち、同様に学校の方へと歩き出した。
なんだ、何が起こったのだ?
なぜ、久院までが学校へ向かおうとし出したのだ?
あの二人の行動を探ろうだなんて思ったりしていないだろうな?
疑念と焦りが私の脳に溢れ返り、状況を推測しようとする思考の邪魔をする。
「お、守口先生、いらっしゃい。 ・・・って、どうしたの?」
いつの間にか開店していた酒屋の主人が、店の前で呆然としている私に声を掛けてきた。
「あ、いや・・・ ごめん、また後で来るから。」
「はぁ、そう?」
店主は小首を傾げながら、拍子抜けしたように気の無い返事をした。
店の横に止めていた自転車に慌てて戻り、私は追いつかないように久院の後を追う事にした。
まさかとは思うが、今日はあの二人を邪魔しないでくれよ、久院・・・
9月 2日 10:13
久院は、やはりあの二人の後を尾けていた。
咄嗟に会話で切り返したものの、事前に今日は学校に入れない事を広めておいただけに、あの二人が学校に
入ったのを目撃し、訝しんでいたようだった。
・・・ 他にも生徒が来ないよう、ここで見張っていた方が良いかもしれない。
気にし過ぎかもしれないが、用心するに越した事は無い。
今日は、今日だけは、誰も学校に入らせるわけにはいかない。
9月 2日 14:38
な、なんという事だ!!
学校のこんな場所に、抜け道があったなんて知らなかった!
今しがた、数人の生徒たちが潜り込んで行った学校の外壁にぽっかりと開いた穴を見下ろしながら、私は
口にする言葉も見当たらない程、途方も無い戦慄に襲われている。
よりによって、邪悪な化け物がその本性を剥き出しにする日に、学校に潜入するなんて・・・
無意識に奥歯を噛み締めながら、私は外壁にドンと拳を叩きつける。
忠告を守らなかったとはいえ、生徒達を放っておく訳には行かない。
私は陰気な森から急ぎ出て、先程まで待機していた正門へと戻る。
『今の学校の敷地』には、『校内と外部の情報を隔絶する結界』が張られている、らしい。
校長の仰ることはよく分からなかったが、『学校の外から中を見ても、何の変化も無い様に見える』のだと、
昨夕、校長から掛かってきた電話でそう聞いた。
事実、12時過ぎにタクシーでやって来た校長は正門から入って行ったが、校門を抜け入ったタクシーは
校門の外から見る事が出来なかった。
次にタクシーを見たのは、校長が校庭で降り、仕事を済ませ出て来た時だった。
仕方ない、私も中に入らざるを得ないようだ。
何事も起きなければよいが・・・
9月 2日 14:52
ば、馬鹿な!
なんだ、あの化け物は!
はあはあと、無人の保健室には私の荒い息だけが響いている。
潜入した生徒たちが教室の鍵を全て持って行ってしまったので、マスターキーを職員室に取りに行ったら・・・
私は、化け物に遭遇してしまったのだ。
汚らわしい四足の獣の頭部は校長そのもので、鍵の入ったロッカーを漁る私を低い位置から見上げてきたのだ。
今朝、職員室に入った時に感じた気配も、恐らくこの不気味な存在の物だったのだろう!
恐怖に駆られた私は、慌てて職員室を飛び出して、あんなものが出て来ないよう震える手で何とか施錠した後、
職員室と同じ鍵で開く保健室へと逃げ込んだ。
全身を襲った強い恐怖のせいで、動悸と激しい呼吸が止まらない。
くそ、なんだあれは・・・
とにかく、私は自身が落ち着くまでここで待つことにした。
校長の仰る通り、今日は間違いなく、ここで何かが起こるようだ。
あの異変を目にして、もはやそれは疑いようがない。
9月 2日 16:51
ふと、目を開く・・・
いかん、先程の出来事での精神的な疲れのせいか、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
養護の机に伏すような体勢で睡眠をとったようだが、この年になると不自然な姿勢から起きる時には身体が
悲鳴を上げる。
そして大きく伸びをして体をほぐし終えた私の目に飛び込んで来たのは、今まさに、校門の前に降り立った
巨大な鳥状の怪物の姿!
あれが・・・あれが、校長の仰っていた迎えの鳥、シャンタク・・・
なんという、なんという、禍々しい姿だ・・・
長く生きてきたが、あんな生き物を見たのは初めてだ。
圧倒的な『力』が、その体躯から溢れ出ているかのようで、私の心が砕けそうになる。
だが・・・
もし、あれを暴れさせることが出来れば、校長が、あるいは空知本人が、止めに来るかもしれない。
それに、あんなところに留まられては、校内に入った生徒たちが怖気づいて帰れなくなるかもしれない。
いずれにせよ、私の腹は決まった。
ともすれば踏み出せなくなりそうな私の足を動かすのは、
私自らの力のみだろうか。
自己満足かもしれない。
罪滅ぼしだとか、生徒への義務感だとか、理由は後付けかも知れない。
それでも・・・
気付いた時には、私は保健室の扉を開けて廊下を右へ、すぐ横にあるテラスの出口の内鍵を開けていた。
そのまま走り出て、真っ直ぐ校門へ向かう。
近づけば近づくほど、怪物の大きさが異様なものであると認識できる。
この怪物だけでも追い払えれば・・・
私は、
赦されるだろうか・・・