「な・・・な・・・?」
驚いてへたり込んでしまったユキちゃんを見下ろしながら、あたしはその1文字に続く言葉が出なかった。
「や〜だ〜! お姉ちゃん、汚い!」
降りかかったコーヒーを両手の指先から滴らせながら、ユキちゃんがドカンと爆発する。
「なんて格好してんのよ!」
あたしも負けずにドカンと爆発し返して、ユキちゃんがびくっと肩を跳ねた。
今、あたしは一瞬にして目が覚めた。
それはもう、はっきり、すっきり、しっかりと。
ただ残念な事に、目の前の突拍子もない光景のせいで若干混乱気味だけど。
「だって、大人の人ってこーゆー格好が好きなんでしょ? お姉ちゃん、喜んでくれるかと思って・・・」
上目遣いであたしを見上げながら、茶色いまだら模様になってしまったエプロンをひらひらと指先で弄ぶ。
「あー・・・ 何かいろいろツッコみたい。」
二日酔いとは関係なしに痛くなってきたこめかみを、あたしはギュッと押さえる。
「え、やだ、お姉ちゃん、つっこみたいだなんて。 お下品だよ。」
にんまりと悪い微笑みを浮かべるユキちゃんに、あたしはとりあえず手を差し伸べて引き起こす。
「そうじゃなくて。 あのね、まずは身体を拭いて、服を着てらっしゃい。」
部屋の隅に置かれているピンクのリュックを指さし、あたしは溜息をつく。
「はーい。 あ、でも、汚れたのがエプロンだけで良かった。服着てたらそれも汚れちゃうとこだったもんね。」
「服着てたらコーヒー噴かなかったわよ。」
聞こえなかったというはずはない音量で言ったのに、ユキちゃんは返答をせず、あたしに背を向けて小走りで
自分の荷物に駆け寄った。
その後姿では、エプロンを留めている大きな白いリボン結びが、健康的な肌色の腰に揺れている。
そう、ユキちゃんはエプロンしか着ていないから。
まだ肉付きの薄いその背中とお尻を一瞥し、あたしは頂きますと一声投げ掛けた。
と、ユキちゃんがタオルで身体を拭きながらぱっと嬉しそうな表情で反応した。
「はーい。どーぞー。 ・・・って、お姉ちゃん、今、私の事見てたでしょ?」
「見たけど気にしてないよー。」
そう告げてみそ汁のお椀を口元で傾ける。
二日酔いでも食べ物を受け付ける頑丈な胃袋が、待ち望んでいた水分と塩分に歓喜している。
同じ味噌を使っているのに、自分のとも、母のとも、姉貴のとも違う味になるのはなんだか不思議。
強いて言うなら・・・教科書の味だろうか。
「気にしてよー。 ほらー、着替えるからエプロン解いちゃうよ〜。」
これ見よがしに結び目を解いてアピールするユキちゃんを尻目に、あたしは箸を進める。
「ユキちゃんのみそ汁美味しい。 いいお嫁さんになれるよー。」
「ホント!? やった、じゃあ、お姉ちゃん結婚して。」
「うん、無理。」
明るい表情になったかと思いきや、あたしの即答に思い切り口を尖らせる。
くるくると表情を変えるユキちゃんをいじるのは面白い。
「お姉ちゃん、そんな言い方されたら傷つくよ?」
ピンクのキャミとピンクストライプのキッズショーツを身に着けたユキちゃんが不機嫌そうにこちらを見つめる。
「しょうがないじゃない。法律で決まってるのよ、無理だって。」
半熟の黄身を崩さないように、ハムエッグの玉子の白身を切り分け口に運ぶ。
「そんなのつまんない。」
「そーよ、世の中なんてつまんない物よ。」
大人らしい厭世的な言葉を口にして、ハッとなった。
子供相手にあたしは何を言っているのだろう。
例えそれが事実だとしても、言ってはいけない言葉。
ほら、それを聞いたユキちゃんが怒ってこっちに小走りでやってきて・・・
椅子の背もたれ越しに、あたしの肩を抱き締めた。
あれ、怒って・・・ない?
「私がそばにいたら、きっと楽しい世界にしてあげられるよ。」
耳元でそっと囁かれたセリフはどこか妖しい色気を帯びていて、あたしの脳をぞくりと震わせるには充分だった。
「へ、へぇ・・・どんな風に?」
後で思えば、ここで強がるべきじゃなかった。
あたしの右耳を走り抜けたくすぐったさ。
「ひっ!」
耳たぶから耳介の側面を生温かい物がぬるりと這った感覚に首が竦み上がる。
「ふふっ・・・」
鼻から噴き出したユキちゃんの含み笑いが耳の裏側を掠めて、思わず肩を揺すって振りほどいてしまう。
「ちょっと! ユキちゃん、怒るよ?」
あたしの剣幕に驚いた風も無く、ひょいと離れたユキちゃんの笑顔はいつもと同じ。
「えへへ、ごめんなさーい。 お食事の邪魔だよね。」
そう言って、ユキちゃんはおどけた足取りでお手洗いへと逃げて行った。
もう・・・