ユキちゃんから告げられた言葉の意味を、あたしは一瞬飲み込めなかった。
日頃あたしの知っているユキちゃんに、親と喧嘩するイメージなんて感じた事が無かったから。
「な・・・んで?」
でもそれは、あたしが知らないだけだったんだ。
「お父さんが、あんまりしつこいから悪いんだもん・・・」
その時の事を思い出したのか、拗ねた声でポロリと文句が零れ落ちた。
「そ、なんだ・・・」
あたしはユキちゃんの肩を抱き締めたまま、体を捻ってソファーに腰を下ろす。
必然的に、ユキちゃんはあたしの膝の上に座る体勢になる。
成長期の身体は軽く、細身のあたしが抱き締めても細く感じるほど。
「でもね、ユキちゃん。 喧嘩したままなのは、絶対ダメ。」
天使の輪が浮かんでいる艶やかな黒髪を頬に感じながら、あたしはゆっくりと語り掛ける。
「だって・・・」
「あたしもね、昔は一杯喧嘩したよ。 親とか、姉貴とか、友達とか、先輩とか。」
それだけじゃない。
他にも、たくさんの人と喧嘩してきた。
「喧嘩するのは、別に悪い事じゃないよ。 意見の違う人間がいれば衝突するのは当たり前だから。」
「・・・じゃぁ、なんで私、怒られてるの?」
振り返らないまま発せられた、先程よりもさらに萎んだ小声が、ユキちゃんの膝に落ちた。
「逃げちゃ、ダメだからよ。」
鳥の声一つ入ってこない静かな空間に、どこか遠くで吠えた犬の鳴き声が二つだけ響いた。
「逃げて、ないもん・・・」
何の威力も無い虚勢を、あたしは抱き締める腕の力をほんの少しだけ強めて抑え込む。
「何があったかは知らないし、無理に聞こうとも思わないけど、その喧嘩に結論は出てる?」
「結論?」
「うん。 喧嘩はね、途中でやめちゃダメだよ。 お互いに相手が悪いと思ったままだと仲が悪くなっちゃうでしょ。」
「・・・うん。」
ユキちゃんは、聡明な子だ。
あたしの言葉の足りない部分を補おうとして返事に間が開いたに違いないから。
「どっかの知らないオッサン相手ならともかく、お父さんだったら、なおさらきちんと解決しなきゃ。」
「・・・うん・・・」
こくり、というにはあまりにも僅かに、ユキちゃんの頭が縦に揺れた。
「ユキちゃんなら、できるよね?」
「うん・・・心配してくれてありがとう、お姉ちゃん。」
今度はさっきよりも大きく頷いて、ユキちゃんは顔を少しあたしの方に向けた。
「どういたしまして。」
抱き締めていた左手を離してユキちゃんの頭頂部にそっと乗せ、二度撫で回す。
枝毛ひとつ感じられない髪から、ふわりと柔らかい香りが立ち上ってあたしの鼻をくすぐる。
「お姉ちゃん、私、ちゃんとお父さんと話すよ。 だから・・・」
頭を撫でられたのが嬉しいのか、少し声に甘さが混じったユキちゃんが立ち上がってあたしに向き直る。
「私の事、子供扱いしないで。」
ちょっとむくれた様な、得意気な様な、嬉しそうな。
背伸びしようとしている複雑な気持ちが、突きつけられた指先からあたしに向けて迸った。
その表情は、確かに子供のはずなのに。
たびたび感じる、脱皮の片鱗。
その断片が、刷毛のようにあたしの胸の奥を妖しくくすぐるのだ。
「・・・どう見ても子供じゃない。」
だから、あたしの回答の方がよっぽど子供みたいになっちゃったんだ。
「子供じゃないもーん! あと6年したら結婚だってできるもーん!」
「それが子供だって言ってんのよ。 ・・・ってか、結婚の事詳しいわね。」
「お姉ちゃんと結婚したいから調べたの、ネットで。」
「だから無理だって言ったでしょ、女同士じゃ・・・」
そこまで言ったあたしの唇にユキちゃんの指が不意に重なって、続く言葉は封じられてしまった。
「私が結婚できるようになる頃には、女同士でもできるようになってるかもしれないじゃん。」
ニヤリと微笑んだ口元だけは子供を卒業しているような気がして、一瞬目を逸らしてしまった。
けどね。
「あたしが6年も結婚しないで待ってると思わないでね。」
生意気な唇に指を押し当てて、あたしもニヤリと微笑み返す。
「なんでー! 待っててよー!」
ソファーから立ち上がって着替えるために寝室へと戻るあたしの背中に、子供みたいな遠吠えが飛んできた。
fin