Incommensurate  その10


「おは、よー・・・ って、塔子ちゃん、どうしたの?」
机に突っ伏している私に、登校してきた弓枝が心配そうな声を掛けてきた。
昨日は日曜だったけど、何もする気力がなくて結局一日中自分の部屋に引き籠っていた。
ついでに言うと、ごはんも一度も食べなかった。
そのせいか、学校に行く為に重い腰を上げた私に一日ぶりの朝食が腹痛としてのしかかってきているみたい。

「んー、なんかお腹痛くて・・・」
『お腹痛い』事になった原因はとても言えないけど、現状だけを友人には伝えた。
「大丈夫? 痛み止め、あるよ?」
「うん、ありがと。 そーゆー痛さじゃないから、大丈夫。」
顔を上げて浮かべたつもりの微笑みが、弓枝の表情に更なる心配を呼び起させてしまったらしい。
こちらを振り向きながら私の前の席に座る。

HRでも立ち上がることができなかった私は、ついに担任から保険室送りの刑を宣告され、弓枝に付き添われ
校舎の1階へと降りた。
まだHR中の廊下は静かで、二人分の上履きの揃わない足音だけが響いている。

ノックをして弓枝が一声。
なにぶん、ここへは入学してから2度しか来た事が無いのでちょっと緊張する。
教室のドアよりも軽い引き戸を開けて、いかにも清潔な匂いが漂う保健室へと踏み入る。
「朝からサボりは・・・ あら、どうしたの?」
養護の淀川先生が呑気な返答を返そうとした矢先、こちらを一目見るや小走りで駆け寄って来た。

「学校についてから、ずっとお腹が痛いんです・・・」
「そう、じゃぁ、まず掛けなさい。 付き添いのあなた、ありがとう。 後は私に任せて頂戴。」
失礼しますと弓枝が去り、わたしは用意された椅子に座っていくつかの問診に答える。

「・・・なるほど。 1日振りに食べ物が胃に入ったから、胃が驚いちゃったのかもしれないわね。」
淀川先生は棚から何かの薬と、流し台から水道水の入ったコップを持ってきて私に差し出した。
「胃薬よ。 飲んだら楽になるまで、休んでいきなさい。」
「はい、ありがとうございます。」
小さな薬包の封を切り、顆粒を舌の上に乗せて一気に水で流し込んだ。
いかにも薬という苦味が、飲み下してもなお口の中に居残って表情が歪むのを抑えられない。

保健室利用者ノートに必要事項を記入して先生の指示通りにベッドに横になると、ただそれだけでもなんだか
楽になったような気がしてしまう。
気持ちも落ち着き白い天井を眺めながら溜息をつくと、すぐにカーテンが開いて淀川先生が声を掛けてきた。

「それにしても、丸一日食事を抜くなんて普通じゃないわね。 なにか事情でもあったの?」
ベッドの横に備え付けてあるパイプ椅子を組み立てる先生からは、穏やかなラベンダーのような香り。
「えぇ、ちょっと、昨日は食べる気がしなかったって言いますか・・・」
口籠る私に、先生は、ちら、ちら、と2度視線を彷徨わせてから言葉を続けた。

「失恋でもした?」
いきなり恋愛関連という核心を突かれ、動揺のあまり顔を背けてしまう。
鳥肌立って鼓動が跳ね上がった私に掛けられる先生の声は穏やかで優しいのに。
「大丈夫。 こう見えても、恋愛相談はよく受けるのよ。 怪我や病気で来る子より、そっちの方が多いんじゃ
ないかってくらいにね。」

さすがにそんなに沢山はないだろうと思いながらも、私は枕の上で首をひねり再び先生の方を振り向く。
「そうなん、ですか?」
「えぇ。 臨床心理士ってカウンセラーの資格もあるし、秘密も保障するわ。」
「はぁ・・・」
「もちろん、無理にとは言わないけど、誰かに話すだけで、少しは楽になれるものよ。」
迷う私に、先生はそっと返答を待ち続ける。

信用してもいいのか。
確かに他に話せる人なんかいないけれど。

「・・・先週の日曜、6日後に、もう会えなくなると判ってる人に告白しました。 好きだったんです、ずっと。」
決意が固まる前に、私の口から勝手に言葉が零れ落ちた。
「相手・・・は私を受け入れてくれました。 もちろん、あと6日しかないって、彼女も分かってたはずです。」
『彼女も』と言ってしまった事に私は気付かず、先生は頷きながら私の話を聞いてくれている。
「なのに、どうして『OK』の返事をくれたのか聞きそびれちゃって、そのまま彼女は行ってしまいました。」

それ以外の部分も話すべきなのか、再び私に迷いが生じた為に言葉を区切ったところで、先生が小さく溜息を
漏らして口を開く。
「灘さん、自分から告白したの。 それはすごい事だと思うわ、頑張ったのね。」
突然褒められたことに戸惑う私をよそに、先生はパイプ椅子の上で脚を組み替え真剣な表情で言葉を続ける。
「その答えは、あなたのお相手しか知らない事だから私が言える事は推測の気休めだけど。」

キーンコーンカーンコーン・・・
HR終了を告げる鐘が鳴り、保健室の外がにわかに活気づいて来た。
「その短い期間だけでも、本当にあなたが好きでなかったらOKを返したりはしないはずよ。」
「そうでしょうか。 あと6日って分かってるから、適当にOKして気分良くさせておいて、もうどうせ
会わないんだからって・・・」
上半身を起こして思わず大声になった事に気付いてハッとなるも、先生は一瞬片目を閉じてから続きを話す。

「それは私には判らないけど、お相手があなたを見る表情から、そんな様子は窺えた?」
その先生の一言は、余りにも的確過ぎた。
ジェシーの表情は、決してイヤイヤなんかじゃなかった。
私は、ジェシーだけでなく、自分の気持ちも見えていなかったのかもしれない。

無言で俯いた先に見えるのは、清潔な布団の真っ白なシーツ。
そんな私の側頭部にある涙腺のスイッチを、ぐいっと先生の人差し指が押し込んだ。
とたんに視界がぼやけていく。

「あなたが信じてあげなくてどうするの。 恋人でしょ。」
優しく諭す声が、私の涙を後押しする。
勝手に肩が震えて、喉の奥から呻きが漏れてしまう。

「楽になるまで、ゆっくりしていきなさい。」
先生は、そう締め括るとパイプ椅子を畳んでカーテンの向こうへと姿を消した。

ジェシー・・・
ごめんね。
やっと自分の気持ちがはっきりしたのに、もう伝えてあげる事が出来なくて。
あの時の事、今なら、私は・・・


 

 

 

 

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