Incommensurate  その9


  現在

 

「ただいまー・・・」
家に着いたのは、もうすぐ6時になろうかという時刻。
当然、こんな時間に家に着いても家族は誰もいないし、昨日までは聞こえたお帰りの声だって返ってはこない。
学校帰りの遠出で疲れた私は、夕方とはいえまだ明るい縁側沿いの廊下を自室へと向かう。

その途中で、もはや当たり前のように振り向いてしまう先は、我が家の客間。
もう電器が点いているはずもない障子の向こうを、ただその手前で足を止め見遣る。

今朝まで賑やかだった場所は、また誰かお客さんが来るのを待っているだけの空間になってしまった。
胸の奥に空いた穴のように、何も無い部屋に戻ってしまったそこを、振り切るかの如く足早に立ち去る。

階段を上り、一番手前の洋室が私の部屋。
勉強机の上に鞄を放り、制服が皺になるのも構わずうつ伏せにベッドへ身を投げ出す。
あぁ、ジェシーがいなくなっただけなのに、家の中がどうしてこんなに寂しく感じるのだろう。
10か月前と同じになっただけなのに、私の心は、あの頃と同じには戻れない。

何も考えられないのに、溜め息だけが無数に枕に吸い込まれ続ける。
ゆっくりとブルーグレーに暮れなずむ室内で、時間だけがいつも通りに過ぎていく。
私だけが、いつまでもそこに取り残されてしまったまま・・・

 

 

  5月 26日 (日)

 

 

「ジェシー・・・」
「どうしたね、トーコ?」
ジェシーの留学最後の日曜日。
私と、ジェシーと仲の良かった友達6人で企画したお別れパーティが終わり、夜の池袋を家へと急ぐ。
二次会を断った私達は友達と別れて二人、人混みを避けるためサンシャイン通りから外れた道を駅へ向かう。

「もう、1週間もないんだね。」
主語のない私の一言に少し考えたのか、ジェシーは間をおいて微笑んだ。
「そうね。 あっという間ね。」
車の音や雑踏、呼び込みや酔っぱらいの大声よりも、ジェシーの声は私の耳にしっかり飛び込んでくる。

「・・・寂しいな。」
とてもそんな一言では収まらないけど、見上げるジェシーの顔がみるみる滲んでいく。
「トーコ、わたしも寂しいね。 でも、泣いたらダメね、もっと寂しくなるね。」
肩に回されるジェシーの腕が、励ましの力を込めて二人の距離を縮める。

今日のジェシーはすっきりしたバニラの香り。
「ねぇ・・・」
そんな甘めな香りに、私はついに溺れてしまったのかもしれない。
「私、今日は帰りたくないな。」
「 Oh , トーコ、二次会行きたかったね?」
「違うの! そうじゃ、なくて・・・」
心臓が、うなりを上げ始めた。
クリスマスの時以来、私は何度踏み止まったか。
数え切れないほど掛けてきたブレーキが、今日に限って働かないかもしれない。

「今日、家に帰らなかったら、このまま一日が終わらなくて、ずっと今日のままでいられたらって、思って・・・」
尻すぼみになっていく私の言葉に、ジェシーが小さく笑った。
「トーコ、ホントに可愛いね。」
「あ、ちょっと、バカにしたでしょ?」
「 non non , わたしは美味しい物にしか美味しいって言わないね。」
だから、可愛い物には可愛いって言うってことなのか。
なんだかちょっと煙に巻かれたみたいだけど、それならばと、私の決意が転がり始める。

「私、ジェシーに秘密にしていることがあるの。」
鼓動が速くなってきて、どこに走りだしてしまうか自分でも見当がつかない。
「秘密? 二人の仲に隠し事良くないね。 トーコ、とっとと言うね。」
ほら、二人の仲とか言うから、もう、抑えなんて利かないよ?

「私ね・・・ ジェシーが、好きなの。 好きになっちゃったの、ずいぶん前から・・・」

肩を抱かれたまま見上げる私に返ってきたのは、ジェシーの、きょとん顔。
「わたしもトーコ好きね。」
あぁ、やっぱり。
それは、なんとなく想像できた反応のうちの一つ。
友達の好意としてしか、取ってもらえないパターン。

「違うの、その、好きって言っても、Likeじゃなくて、その、Loveの、方、で・・・」
伝わらない以上は仕方ないけど、自分の言葉を説明させられるなんて拷問だ。
言うべき内容が分かっているからこそ、恥ずかしさのせいでカタコトになってしまう。

「 Love? そうね、同じ釜の飯を食べた以上、わたし達は家族の愛で繋がってるね。」
微笑みが優しいだけに、痛くてたまらない。
やっぱり、そうとしか受取ってもらえないのか。
・・・それとも、私が自分の気持ちを勘違いしているだけなのか。

視線の先が地面になってしまった私には見えなかったけど、悪いにやにや笑みを浮かべたジェシーが耳元に、
助け船を出すようにそっと囁きかけてきた。
「トーコ、わたしへの気持ち、確かめる方法あるね。」
藁にもすがる思いで顔を上げた私の唇に、素早く重なった、ジェシーの唇。
唇同士がくっつく感触を初めて知った驚きよりも、裏通りとはいえ人がいる歩道でいきなりという驚きよりも、
ジェシーのアグレッシブな行動に、驚いた。

「トーコ、イヤだった?」
主語のないジェシーの一言に少し考える事もできず、私は間をおいて小さく首を横に振った。

「 OK , それなら、本物ね。 トーコ、Love me , as you want・・・」
今度は両腕でしっかり抱きしめられながら、私達は夜の繁華街の歩道で深く口付けを交わした。



 

 

 

 

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