Incommensurate  その13


  6月 16日 (日)

 

 

梅雨特有のしとしと降る雨が、もうじき家に着く私の傘に音も無く弾かれてゆく。
天気予報の勧めに従って折り畳み傘を持っていたから良かったものの、一人さえ入りきらない大きさのせいで、
右手に持つ夕食の食材が入ったスーパーのビニール袋の表面に細かい水滴が張り付いてしまっていた。

ジェシーが故郷に帰ってから2週間。
暗いオーラを纏った私は、弓枝をはじめとした友達みんなに励まされたおかげで、なんとか元の生活に戻る
事が出来た。
・・・ような気がする。

忘れた訳じゃない。
ただ、失ったものをいつまでも嘆いていても何の解決にもならないと分かっただけ。
霧のような雨が落ちてくる灰色の空を見上げ、傘の柄を改めて握り締める。
枯れ果てたかと思えるほど溜息をついたせいか、今は、もう出なかった。

「あ、塔子お嬢! 今お帰りでしたか?」
少し先の曲がり角から私を見つけて声を掛けてきたのは、大きな黒い傘をさした仕事着の坂田さん。
うわの空で歩いていた私は、慌てて平静を取り繕いながらえぇまぁと返事を返す。

それからほんの少し、今日の私の夕食は何かとか、坂田さんがもうすぐ下拵えを担当させてもらえるんだとか
そんな世間話をして、彼はどこか落ち着かない様子でこの場を後にお店へと向かっていった。
特に表情の事を指摘されたりはしなかったから、きっと顔には出てなかったんだと少し安心する。
それくらいには、立ち直れたという事かな。

気を取り直して再び歩を進めるも、今度は今起きた事に疑問が生じた。
坂田さんがこんな方から歩いてくるなんて、どういう事なのか。
この住宅地の中の、この方向で、坂田さんに関係のありそうな場所など我が家しか思いつかない。
開店の5時はとうに回り、経営者である私の両親も既にお店にいる時間だから、家に呼ばれたとも思えない。
先程彼が忙しなく見えたのは、きっと営業中だから早く戻りたかっただけなのだろう。

では、何故?

答えは、辿り着いた自宅の門を開けた先にある玄関前に、佇んでいた。

お店の備品である、坂田さんがさしていたのと同じ黒い傘を携え、その少女は雨の届かない軒先で何かを待って
いるようだったけど、私が入って来たのを見つけてその表情が輝いた、ように見えた。

その少女がこちらを振り向けば、首の動きに合わせて靡くブロンドの長い髪。
身に着けているプリントTシャツは、彼女が日本に来て最初に買った昇り龍の文様。
アメリカから携えてきた大きなキャリーバッグの軒先に入りきらない部分が、恨めしげに濡れ光っている。

「トーコ!」

鼓膜から、胸の奥に、染み入るように私の中に入ってくる、その声。
一瞬、自分の心が生み出した幻なのではという考えは、私を強く抱き締める感触と共に粉々に吹き飛んだ。
そしてふわりと漂う、青リンゴの香り。

間違いない。
間違いようがない。

「ジェ・・・」
私の声は、大きすぎる気持ちが一緒に溢れ出ようとした為か、喉につかえて出て来なかった。
買い物袋と傘を握ったままの腕を必死でジェシーの背中に回し、親愛なる者同士の挨拶を受け止める。

「トーコ。 ただいま。」
「ジェシー、どうして・・・」
お帰りと言ってあげなきゃいけない事も忘れ、ジェシーの腕の中で少し高い位置にある眼を見上げる。

「 High School、今日から夏休みね。 だから夏休みの間、わたしは日本で働くことにしたね。」
国を跨いでアルバイトだなんて、無茶苦茶というかなんというか、私のスケールには収まらない話だけど、
そんな大きな話を突然思い付きで出来るモノなのかと、ふと疑問に思う。
「働くって、そんな、働く場所とか、住む場所とか、いろいろ必要でしょ?」

「 umh・・・ トーコ、No problem ね。 どっちももう決まってるね。」
待ってましたとばかりに、ジェシーがニヤニヤ笑みを浮かべながら私の鼻先に口づけを落とした。
「働くのは、この地に100年の老舗料亭『蔵なだ』さんね。 日本以外の国のお客さんの needs に合わせて
英語と日本語の両方喋れる仲居さんが欲しいって owner さんが言ってくれて、わたし即採用ね。
しかも、住み込みで働かせてくれるって、すぐ近くにある住み心地の良い場所まで案内して貰ったね。」
「はぁ!?」
それって、うちのお店と父の事じゃない。

えと・・・
ちょっと待って。

感動の再会、は、おいといて。
私は状況を冷静に見つめ直す。
ジェシーは、今日から夏休みで、うちのお店でアルバイトする。
まさか、電話一本で話が通る訳も無いし、だとすると、ホームステイが終わる前から決まっていた・・・?
それに案内してくれたって、まさか、坂田さんがここに送り届けてくれたって事?
まさかばっかりになっちゃってるけど、そう考えるとさっきの坂田さんの『今お帰りでしたか』という言葉と
そわそわした態度、家に私がいなかったのと、ジェシーに口止めされて困ってたのだと考えれば合点がいく。

考えが纏まって上げた顔を覗き込んでいるのは、してやったりとジェシーの悪い笑み。

「トーコ、難しい顔してるね。 だけど、トーコ、頭がいいから気付いたね?」
「ま、まさか・・・!」
わざと事前に言わなかったの?
「新婚生活には Surprise が大事ね。」
「ジェ・・・ジェシー! もうっ!やりすぎ、だよっ!」
新婚生活。
つまり、ジェシーが住み込むのは、つい先日まで使っていた我が家の客間に相違ない。

「トーコ、怒らないで欲しいね・・・ わたし、ちゃんと約束したね。『絶対、また日本に来る』って。」
「そうだけど・・・」
確かにそうだけど、まさか半月後に果たされるなんて思ってもみない。

やり場のない怒りと、再会の嬉しさと、さっきまでうじうじしていた自分のバカさに呆れたのと。
それも全部、ジェシーの腕の中で一つに溶けて、今の幸せに変わる。
ジェシーが夏休みの間だけという又しても期限付きの恋だけど、それでも、今のこの状況を『幸せ』って
思ってしまったんだから、本当に私は馬鹿だ。

「わたしは約束を守って、願いを叶えたね。 さぁ、次はトーコが願いを叶える番ね。」
そう言ってジェシーは私の傘を取り、ポケットから取り出した何かを空いた左手の薬指にはめた。
『お前の願いを言ってみろ・・・』
ピカピカと点滅を繰り返すプラスチックの指輪が、お決まりのセリフを再生した。

そのまま言葉を続けたら、センサーが反応して無理問答になってしまうから、ジェシーの手をそっと押し返し
私は左手を降ろす。
「その前に、聞きたい事があるの。」
「何ね? トーコ。」
「ジェシーは、どうして私の告白を受け入れてくれたの?」

聞けなかった言葉が、今は不思議な程すんなりと出てきた。
だって、これを聞かなかったら、過去の自分から変わる事が出来ないから。
2度目の恋人期間を迎える、自分へのけじめのように思えたから。

「簡単ね。」
そう言ったジェシーはほんの一瞬のキスを私の唇にして、天使のように微笑んだ。

「トーコの作るごはんを、ずっと一緒に食べたいからね。 トーコと、一緒に。」
「ジェシー・・・ ありがと。 じゃぁ、私の願いは・・・」
再び顔の前に上げた左手に、私は今の願いを囁きかける。

 

 

 

 

『ふははは、いいだろう、その願い、叶えてやる!』
テレビアニメと同じ、願いを叶える気になった魔人が荒ぶるときのテーマ曲をバックに、私達はお互いを
深く抱き締めあいながら、霧雨降りしきる玄関先で2週間ぶりの深い口付けを交わした。




fin


 

 

 

 

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