Upside down その5


それからしばらく、高波さんは黙々と勉強に集中していたのに対し、私は手元の文学書のページをめくる
気力もなくなってしまっていた。
それはただ単に恥ずかしい事を言わされたというだけではなく、高波さんの手に自分の手を重ねたときの
手の甲の感触や小ささ、そして耳元に漂うあの南国のような甘い香りにすっかり心が支配されてしまった
からに違いない。

手はよく繋いでいるから掌や指の感触は知っている。
けど手の甲には、改めて振り返ってみるとそんなに触れたことがなかったように思う。
それは掌よりも少し固くて、少し冷たくて、骨の感じもした。
一応付き合ってるのに、まだまだ高波さんにはほとんど触れていないと思うと、少し胸の奥が痛くなる。

それに一息大きく吸い込んでしまったあの香り・・・
あれはシャンプーかしら?それとも香水?あるいは、ボディクリームや化粧品かもしれない。
ここまで一緒に来る途中では気にならなかったのに、空気の動かない室内の至近距離だからだろうか、
『高波さんの匂い』としてすごく意識してしまう。

チラリと右を見てみると、机に向かっている高波さんはこちらを気にしている様子もないので、
ほんの数センチだけ右に身体をずらして、大きく一つ、深呼吸してみる。

・・・・・・

当然だけど、さっきのような濃い香りに包まれることなどできず、ただ自分の変な行動を後悔するだけの結果に
なってしまった。

なにやってるんだろう、私・・・

願えばすぐにでも触れられる関係なのに、私の口からはその一言がどうしても出ない。
でも・・・もし言えたとして『匂いかがせて』なんて、いくら高波さんだって絶対引くに決まってる。
だって、そんなのただの変態発言だもの。
嫌われてしまうかもしれないし・・・

「なぁ、氷音先輩?」
不意に頭の中に浮かんでいる人物の声がして、びくっと肩が跳ねてしまう。
「は、はい!ごめんなさいっ!」
やましい事を考えていたから、とっさに謝った声が少し大きかった。
今度は高波さんが周囲に視線を巡らせると、人差し指をふっくらとした自分の唇に当てて私を諌める。

「この問題の解き方やけど、3ヘイホーのテーリっちゅうのでえぇのかな?」
必死に自分の気持ちを抑えようとしているので、公式の名前のイントネーションが変だったことにも気付けない
私が高波さんの教科書を見ると、最も基本的な三角形と、角度を求めよという問題が書かれていた。
「そうね。3辺の長さが出ているから、公式を当てはめて・・・」
教科書を指差す為に自然と近寄った私の鼻腔に、再び高波さんの香りが襲い掛かってくる。

その様子に気付いたのか、高波さんが一瞬だけ私に視線を走らせた。
ハッとなって視線を逸らしてしまう私に何を思うか、高波さんはシャープペンを走らせる。

cosC=(B²+A²−C²)/(2bc)
    =(12²+5²−13²)/(2・5・12)
    =0
    ∴ C=90゜

そう、合ってるわよ。高波さん。
そう思って少しだけ私の口元が緩んだ瞬間、高波さんはくるりと手の上でシャープペンを一度回して、
解が出たはずの数式を続ける。

cosC=新しい香水、どぉ?

「!!」
ウソ・・・高波さん、気付いてたの?
それとも、悟られるほどあからさまにやってたかしら?

    =このにおい、好き?

私の焦りをよそに、高波さんはシャープペンを得意気にくるくると回しながらその数式の解を出した。

    =もっとにぉてえぇヨ♥

それを見た途端、私の頭は色々な負の感情で溢れかえってしまい、どうしたら良いか判らなくなってしまった。
どこにも視線が定まらず、悪戯っぽく微笑んだ高波さんの顔など、とても見ることが出来ない。

「ごめんなさい・・・ちょっと、トイレ・・・」
そんな私は脱兎の如くその場から逃げ出すことしかできなくて、高波さんが引き止めようとする声など
全く耳に入って来ようはずもなかった。

 

 

 

 

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