Upside down その4


「図書館でデートなんて、氷音先輩らしいわぁ。」
今は私の右の席に座っている高波さんは、建物を見た瞬間そう微笑んだ。
ここは豊島区にある区立図書館。
そんなに大きな施設ではないけど、読んでみたかった蔵書がここにしかないというので、一度来たかったのだ。
「渋谷とか原宿とか言わんのんが、かわいぃなぁ。氷音先輩は。」
私が読書してるのをいいことに、さっきからなんだか色々言われてる気がする。

私はお目当ての文学書を読みながら、高波さんに勉強を教えていた、けど・・・
30分もすると高波さんの集中力はすっかり切れてしまい、ノートには数学の公式ではなく、二足歩行の
可愛くデフォルメされた猫が右下でニャーと鳴いていた。

「高波さん、勉強はもういいの?」
迷惑にならないよう、普段よりも更に小さな声で問いかける。
「んー?そんな言われてもなぁ・・・」
私の心配をよそに高波さんの手はちくちくと動き、さっきの猫をつがいにし始めている。
「氷音先輩とおしゃべりもできんし・・・しんどなってきたわぁ。」
新しい猫が描きかけなのに、先にいた猫の上にニャーを3つ書き足した。

「そうよね・・・ごめんなさい。」
大体、図書館なんてデート向きの場所じゃない事くらい、どうして私は気付いてあげられなかったのだろう。
喋れないし、はしゃげないし、笑える事もない。
「ちゃうちゃう、えぇんよ。氷音先輩は読みたい本あったんやから。」
小声で微笑む、その私への気遣いが痛くて、視線が更に下がってしまう。

「お、そや!えぇこと思いついた!」
高波さんは悪戯っぽく唇だけで微笑みながら、2匹目の猫を完成させる。
それと・・・何か関係があるの?
「ウチがもうちょい勉強頑張ったら、氷音先輩、本読めるやんなぁ?・・・や・か・らぁ。」
得意気にシャープペンを走らせる高波さんは、よく見ると最初にいた猫よりも大きな2匹目の猫の頭に
ぱっつんロングヘアと左目の下に泣きぼくろを書き加え、先にいた猫と手を繋がせる。

その猫は・・・もしかして私!?

さらに私猫の上に吹き出しをつけて書き込まれた文字は・・・
「ウチ、氷音先輩にこんなん言われたら、もっと頑張れる気ぃすんねんけどなぁ・・・」
机の下で、スカートの上に置いた左手をわきわきさせながら、高波さんが上目遣いで私を覗き込む。

こ、これは・・・
でも、これで高波さんが勉強頑張ってくれるなら・・・
にわかに鼓動が高まってきて、恥ずかしさが込み上げてくる。
離れた所にだけど、他の人だっているのに・・・

「なぁ?氷音せんぱーい。」
高波さんの小さな顔が私に近づいてきて、唇の動きだけに私の視界が釘付けになる。
『言え!言うのよ、氷音!言うだけでいいんだから!』
心の中で自らを鼓舞し、意を決する。
ふぅと小さく息を吐いてから、高波さんの左手の甲に自分の右手を重ね、いい匂いのする耳元に口を寄せる。

「も・・・もう少し頑張るにゃん。りみにゃん。」

言った瞬間の沈黙で、カーッと頭に血が上る感覚。
私は急いで手を離し、南国の香り漂う高波さんから離れて様子を窺う。
ぎゅっと目を閉じ、ペンを持つ手をぷるぷる震わせた高波さんは、すごい勢いで猫の上にニャーを書きまくる。
ハァハァと急に息を荒げ、いくつもいくつも書き殴る。

あ・・・ええと・・・
その形相が少し怖くなって、掛けようとした言葉も出てこないまま、私はそれを見守る。
「くぅー・・・ ウチ、頑張る!よっしゃ、気張るでー!!」
ガタンと立ち上って大声でそう宣言すると、高波さんは意気揚々と教科書との格闘を再開した。

一瞬刺さった周囲の視線に気付くはずもない高波さんの代わりに、私は小さく謝罪の会釈する。
それだけで図書館の空気は元に戻ったけど、私のドキドキは一向に収まる気配がない。

 

 

 

 

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