Upside down その11


夕方のメインストリートは、これから街へ向かう人と、帰ろうと駅に向かう人とで入り乱れ、気を抜くと
たちまち高波さんを見失ってしまいそう。
どうしてあんなに上手に人を避けて走っていけるのかなんて、考えてる場合じゃない。
微かに人の壁が割れている部分を、私は必死に追いかける。

うぐ・・・
普段運動は苦手で、走ったりすることなんて滅多に無いから、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
でも、私の疲れなんかより高波さんの苦しみの方がもっと辛いはず。
スピードが落ちて今にももつれそうな脚を、気力だけで前へ進める。
高波さんが姿を消した路地の曲がり角を、壁に手をつきながら、ゆっくりと、曲がる。

「あ・・・ここは・・・」
必死に走ってきたから気付かなかったけど、目の前には今日訪れていた図書館。
そして図書館に併設された小さな公園の、寂しげに灯る一本の街灯の下でうずくまる茶色い人影。
何を疑う事もなく、私は重い足を引き摺りながら公園の入り口へと吸い込まれるように近づいた。

「た・・・理美ちゃん。」
まだ治まらない荒い呼吸の合間に出た微かな一言に、ただでさえ小さな背中を丸めた高波さんが顔を上げた。
「ひ・・・氷音先輩・・・」
脇腹の辺りを押さえながら、立ち上がった高波さんがよろよろと私に倒れこむ。
「理美ちゃん!?大丈夫!?」
具合でも悪いのかしら!?
さっきの剣幕が怒って出て行ったのなら、どうして私に寄り添うの?
同情を引きたいだけなの?
・・・もう、高波さんの事、解らな過ぎるよ・・・

「あかん・・・食べてすぐ走ったら、お腹痛なってしもた・・・」
謝ったら良いのか、怒ったら良いのか、心配したら良いのか判らず、何も言えないまま高波さんを支えながら
近くのベンチに連れて行き、二人で腰を下ろす。
すっかり日が暮れて、他に誰もいない公園の前を横切るのは閉館時刻を迎える図書館から出て来る人くらい。
蛍光色の街灯に照らされた高波さんの横顔は少し青ざめて見えて、背中をさすろうかと上げかけた手が結局、
勝手にそんな事をして良いのか分からなくて自分の脚の上に戻ってきた。

「っふふ。」
静かな公園に、小さな笑い声が弾けた。
話すきっかけが見つけられなかった私は希望を込めて、その声の主を振り返る。
「良かった。氷音先輩、追いかけてきてくれて。」
「当たり前じゃない。私、また理美ちゃんを怒らせちゃったんじゃないかって、怖かったのよ・・・」
呼吸が落ち着き、堰を切ったように言葉が溢れ出す。

「ウチは怒ってへんよ。ただ、氷音先輩がキスしたないゆーから、ほんまは嫌われてんちゃうかと思て・・・
でも、図書館での事は許してくれたし、他になんも思い当たらんから、なんや身体が勝手に走ってしもたんや。」
高波さんは照れたようにペロッと舌を出して、堪忍やと苦笑を浮かべる。

・・・・・・
その言葉は、完全に私の理解を超えていた。

何かが、ぷちんと私の頭の奥で音を立てた。

キスをしたくないから嫌いとか、そこが判断基準じゃないでしょう!?
大体あんな人前で堂々と臆面も無くキスできる人の方が、私には意味が分からないわよ!
街中で見かけるバカップルじゃあるまいし、ただでさえ目立つのに出来るわけないでしょうがー!!
ったく、どんだけキスしたがりなのよ!ねぇ、キス魔!?キスの悪魔なの!?

堪忍袋の緒が切れても、お行儀の良い私の内容物は、はみ出すことなくその袋の中だけで暴れ回る。
無表情のまま吹き荒れる胸中の巨大台風を、解き放つことなどできはしない。

「なぁ、氷音先輩。ほんまはウチの事、嫌いなん?」
私の腕にしがみつき上目遣いで見つめる瞳は、雨に晒された段ボール箱の中の子猫のよう。
そしてその目は、私の胸中の乱雲を吹き飛ばすだけの力を持っていた。

「嫌うとか、そういう事じゃなくて、あんな人前でキスなんて恥ずかしいし、できれば、その・・・
他人には見られたくないのよ。」
必死に言葉を見つけて説明するけど、とても顔を高波さんに向ける余裕なんて無い。
「えぇと・・・それ・・・って?」
イマイチ伝わらなかったのか、先を促される。
「私達がキスするところとか、理美ちゃんがキスする時の顔とか・・・他の人には見せたくないの。」
言い終わってから、なんて事を口走ったのかと、急に顔が熱くなってくる。

とん、と右腕に小さな衝撃。
「なんや、せやったんか。・・・ふふ。氷音先輩、めっちゃ可愛い!」
頭を寄り添わせたまま嬉しそうな高波さんの怪しげな微笑みに、どう反応して良いかわからない。
「そんな風に想われとったら、ウチ、幸せもんや。」
私の右頬を、ほんの一瞬、冷たくて柔らかい感触が掠めた。

ひょいと立ち上がった高波さんは、後ろで手を組みながらくるりと私を振り返る。
「わかった。氷音先輩がそーゆーんやったら、もう人前ではせぇへんよ。」
「理美ちゃん・・・」
言葉にすれば、想いは伝わる。
温かな風を胸の奥に感じたその時、不意に高波さんの顔が近づいてきて私の顔とすれ違った。

「その代わり、二人きりになったら、激しなってまうで?」
ふわりと南国の香りを残して、向日葵がニヤリと笑った。

 

 

 

 

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