Beams その12


なるべく早足で、今日の授業が始まろうとしている廊下を急ぐ。
でも、途中で千河に追いつかないペースを保って保健室に向かうことにした。
廊下で千河に追いついたりしたら、面倒なことになるのは目に見えてるからだ。
保健室に迷惑が掛かるのはもう仕方が無い。
千河が飛び込んだ時点で既に迷惑になってるはずだし。

1時間目の鐘が鳴る中、他のクラスの先生と擦れ違っても脇目も振らず、ボクは軽やかに1階へと階段を
駆け下り、1段飛ばしで着地して右へターンする。
そしてすぐに見えてくる校舎正面玄関横に保健室はある。
その扉の前で立ち止まり、少し弾んだ息を整えてからドアをノックする。

「失礼します。」
カラカラと小さく車輪が回る音と共に開けたドアの向こうには、養護の椅子に人影が一つだけ。
「朝からサボりはダメよー。来週の身体測定の準備で忙しいんだから。」
背中越しに声を掛けられたが、構わず中に踏み込む。

呑気にコーヒーを啜りながらファッション雑誌のページをめくるのは、養護の淀川 遼子 先生。
とても忙しそうには見えない先生に、部屋の真ん中からひと声掛けてみる。
「あの、先生。忙しいところすみませんが。」
千河の姿が見当たらないような気がして、胸の奥がもやもやしてくる。
そんなボクの声に、先生は意外と小奇麗な机の上に雑誌を置いて振り返った。

「あら珍しい。2−Dの波崎じゃない。何かやらかしたの?」
ここに来た回数など数える程しかないはずだけど、ボクは可愛いからすぐに覚えられてしまうんだよね。
「先生。いくらボクでもそれは失礼ですよ。特に、先生に言われるなんて心外です。」
ボタンを留めていない白衣の内側は、赤いブラウスのボタンが2つまで外れていて、ダイヤモンドのトップが
きらりと輝く細いチェーンネックレスが覗いている。
濃紫のタイトミニスカートから突き出た脚は組み合わされ、赤いハイヒールが目に眩しい。

誰にアピールしているのかは、保健室の常連に聞けばすぐにわかる。
・・・答えないからだ。

「ふふ。朝からご挨拶ね、波崎。どうかしたの?」
若干うろたえた先生は、素早く話題を元に戻した。
「ウチのクラスの柳、来てませんか?」
いろいろ追求するのも面白そうだったけど、趣味じゃないし、何より今は時間が惜しい。
ボクの真剣な表情と声に気づいたのか、先生はしっかりとアイシャドウの乗った瞼をゆっくりと閉じた。
「いいえ。今日はまだ誰も来てないわ。あなたが最初の客よ。」
ゆるふわウェーブの掛かった髪を耳に掛け、そう答えた先生は椅子の背もたれを軋ませながらボクを見上げる。

「そう・・・ですか。失礼しました。」
千河・・・
ここじゃなかったんだ。
じゃぁ、一体どこに?
唯一の手掛かりを失い、仕方なくボクは入ってきた方へ向きを変える。

「波崎。」
しっかりと重みのある声で呼び止められ、ボクの足は勝手に止まる。
「はい・・・。」
「泣かしたの?」
ズズズっと、コーヒーを啜る音がした。
「いえ。」
「泣かすつもり?」
ギシッと椅子が鳴く。
「そう・・・ならないといいです・・・」
突きつけられた現実に、ボクの声はどんどん小さくなっていく。

「他人事みたいな言い方ね? ”プリンス”」
コツコツと高いヒールが近づいてくる音がして、ボクの後ろで止まった。
柔らかく刺激的な香水の香りが、ボクの鼻をくすぐる。
「そうなるかどうかは、あなたが決めることよ。そのくらい、知ってるはずでしょう?」
言い聞かせるようにゆっくりと話す先生の言葉が、重すぎて徐々に目頭に蓄積してゆく。
「でも、今度ばかりは、今までとは、違うんです・・・」
するりと頬を伝う何かの感じがして、ボクの声と肩が震えだす。

「そう。本当に大事な人からのチェックメイトって訳ね。」
返事をしないボクの肩に、先生の手が優しく置かれた。
「なら、答えは決まってるんでしょう? そういう子の前でカッコつけても無駄よ。」
「はい・・・」
解ってた。
そんなことくらい。
でも、改めて言われて気づいた。
千河がボクを好きなように、ボクもきっと千河が好きなんだ。
伝えたいけど、失いたくない・・・
この迷いこそが、その証拠。

「正面からぶつけてみなさいよ。お互いに受け止めあって、それで流す涙の意味を決めなさい。」
「は・・・はい・・・」
震える声で、ただ返事だけをする。
ボクの肩に置かれた手が、優しく二度、ボクに勇気を叩き込んだ。

 

 

 

 

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