「ふふっ。学園の”プリンス”にお説教できる日が来るなんて、こんな所にもいてみるものね。」
開け放たれた保健室の窓からは、とっくに始まってしまっていた体育の授業のホイッスルの音が聞こえて来た。
先生はボクの後頭部を指で突くと、ハイヒールの踵を鳴らしながら椅子に戻って行った。
「ありがとう・・・ございました。」
大きく息を吸い込んで、涙を止める。
「いーえ。お代はそのレアな表情でいいわよ”プリンス”。サービスしとくわ。」
先程遣り込められたのを根に持っているのかと思わせるシニカルなその一言が、逆にボクの唇を緩ませる。
「そう言えば、探してたんだったわね。ここ以外に心当たりはあるの?」
そうだった。でも、ここに来てる筈だったのにいなかったし、当てもない。
「いえ、探してみます。」
そう言って踏み出そうとしたボクの背中に、先生の言葉は続く。
「私がここの学生だった頃の噂だけどね。傷心で授業サボって学食に来る子に、おばちゃんがアイスを
くれるってのがあったの。今もそんな話あるのかしらね?」
そんな七不思議みたいな話をボクは知らなかったけど、行ってみる価値はあるかもしれない。
「ありがとう、先生!」
ボクは勢いよくドアを開けて、授業中で静まり返った廊下を駆け出した。
「おーい、閉めて行けー。」
呑気な先生のその声は、ボクの走るスピードに追いつくことは出来なかったようだ。
そのままトップスピードで廊下の角を曲がり、地下食堂への階段を1段飛ばしで駆け下りる。
仕込み中でがらんとした食堂は、厨房だけが忙しそうに回っていた。
醤油を煮ている美味しそうな匂いが、排気しきれずに食堂内に立ち込めている。
明かりの点いていないテーブル席を見回すと、区切られた一角のひとつだけに明かりが点いていた。
直感的に、ボクの足はそこへと向かう。
千河・・・いてよ・・・
ボクの祈りが通じたのか、はたまた必然か。
そのテーブルの奥の席には千河がちょこんと座っていて、自販機のいちご牛乳の紙パックを片手に持ったまま
ぼーっと虚空を見詰めていた。
「千河!!」
思わず叫んでしまったボクの声に、ビクンと身体を震わせた千河のいちご牛乳が少し飛び出した。
「まっ、まゆ!」
近付くボクから目を逸らし、千河はその場に固まり続ける。
「よかった、ここだったんだ・・・あれ? アイスじゃない・・・」
息を切らしながら、淀川先生の言葉を思い出す。
「アイス・・・? 何言ってんの?」
理解できないことを言われた千河の片眉が上がる。
「あー、いや・・・急に教室出て行っちゃったから、そんなに千河が怒ってたなんて思わなくて・・・ごめん。」
綺麗に掃除された床が見えるほど、深々と頭を下げる。
「別に、怒ってなんか・・・急がなくていいって書いたでしょ?」
教室で言いかけたことは、多分これと同じ。
これじゃないとすると・・・ボクは思い当たるもうひとつの事も恐る恐る聞いてみる。
「えと、じゃあ、昨日あられと買い物に行ったこと?アレはホントに付き合わされただけなんだってば・・・」
ボクのうろたえを表すように、二つの尻尾が頭の上で揺れる。
「ちが・・・違うのっ!」
そう言ってボクを見上げた千河の手に握られたいちご牛乳が、また少しストローの先端から噴き出る。
「まゆの・・・まゆのせいじゃないの。あたしが勝手に・・・」
弱々しい声と共に、千河の首が下がっていく。
「何があったの?・・・教えてよ、千河。」
「触らないでっ!!」
ボクが千河の肩に手を置くと、怯えたように振り払われてしまう。
その剣幕に驚き、ボクは掛ける言葉を失ってしまう。
あぁ・・・もう、どうしたら・・・
「触ら・・・ないでよ。今触られたら、あたし・・・」
表情をくしゃくしゃにしながら、テーブルに置いた左腕に額を沈ませる千河は、その背中を小さく震わせている。
「もう、あたし耐えられないよ・・・こんな気持ち、ずっと抱えてるなんて・・・」
上擦った声が腕の隙間から僅かに漏れ聞こえてきて、ボクの胸を締め付ける。
そっか・・・やっぱり覚悟しちゃったんだね。
淀川先生。さっきはありがとうございました。
聞いちゃったからには、ボクも応えないといけない。
・・・いや、応えたい。
ボクは惜しい気持ちを溜息に変えて、吐き出した。