「なに?突然。どうしたの?」
困惑したあなたが心配そうに私を見つめ返す。
あなたの手を握る私の指に力がこもる。
「なんとなく・・・その方が、いいのかなって・・・」
いくつもの不安が重なって、視界が滲む。
そんな私の想いをよそに、小さくあなたが噴き出す。
「何言ってんの?もともと可愛いのに、化粧する必要ないじゃん。」
ボンッ!と音がして、私の頭頂から間欠泉が飛び出す。
完全なカウンターパンチが、予期していなかった私に決まってKO負け。
「あ、の・・・」
真顔で可愛いって言うの、反則だと思う。
ぐるぐると、見つめてたはずの視界が彷徨う。
「ほら。帰ろ。遅くなっちゃうよ。」
再び歩き出そうとするあなたは、私の足が踏み出すまで待ってくれていた。
この時間の駅は、いつも混んでいる。
入る人と、出てくる人の流れから少し離れた柱の陰で、あなたとはしばしのお別れ。
「薫。今日はありがと。嫌いな映画付き合せちゃってゴメンね。」
せっかくクールダウンした顔の温度が、また上がってくる。
「映画はともかく、沙織と一緒に遊びたいもの。どこでも行くよ?」
あなたのその爽やかな微笑みは、私にしか見せないから、さっきの流れが嘘のように安心できる。
「じゃ、今度はお化け屋敷ね。」
「いぃーーーー!無理無理!」
気が楽になって軽口を叩く私に、大げさに慌てるあなたがおかしくて、笑ってしまう。
「もう、沙織いじわる・・・」
ふふ・・・拗ねた横顔が可愛い。
「うそうそ。たぶん。」
「もー!」
柱の側だけ時間から切り離された空間が展開されていたけど、流れ続けるそれを否定することは出来なかった。
「じゃ、気をつけて帰ってね。わたしは地下鉄だから。」
私がこんな調子だから、きちんと管理してくれるあなたの優しさが嬉しい。
「うん。薫も、気をつけて。」
微笑を残してくるりと向きを変えるあなたの背中。
その後姿に、小さく込み上げる寂しさ。
「待って!」
慌てて掴んだあなたのシャツの裾の下から、腕や顔と違って日焼けしていない白い背中が
ちらりと露わになって思わずはっとしてしまう。
「また・・・明日、会いたい。」
折角仕切ってくれたあなたに申し訳なくて、目が合わせられない。
それでもあなたの返事はいつもと同じ。
「わかった。じゃ、帰ったら電話して。」
いつもと同じ。
そう思っていた私は、不意にあなたの指先が私の顎を上げて前髪を払ったのに反応できなかった。
唇に優しくて柔らかい感触・・・
気が付いた時には、あなたは既に私に背を向けていて、
背中越しにまた明日と言っていた。
あなたとした、9回目のキス。
その背中をいつまでも見送りながら、唇に残る感触を人差し指でなぞる。
ありがとう・・・
人混みの壁で視界が遮られ、ようやく帰る決心が付いた私は改札を抜ける。
10番線ホームへの階段を上る間も、暖かな気持ちがふわふわと足元を弾ませる。
くすくす。帰ったら今日も門限破りで怒られちゃう。
Fin