小走りに貸し出しカウンターの前を通り過ぎ、そのまま誰も居ないトイレに駆け込む。
鍵を掛けて便座に座ると、自然に頭を抱える体勢になってしまう。
どうしよう・・・絶対、私、変に思われた。
いくらお付き合いしている同士でも、こっそり匂いをかいでることに気付かれるなんて最低だ。
吐き気にも似た後悔の念が、胸の奥から込み上げてくる。
せっかく私のような人間を好いてくれる人が現れたというのに、自らの軽率な行為のせいで失ってしまう
かもしれないなんて・・・
いつしか、私の目からはボロボロと涙が溢れ、撥水加工されたスカートの上で悲しみが何度も弾ける。
どうしたら・・・どうしたら良いの?
そんな思考に沈んだ私の耳は、ぱたぱたと誰かがトイレに駆け込んでくる足音に気付く。
その足音は、3つある個室のうち唯一閉まっている私の前で止まり、ドンドンと扉を叩いた。
「氷音先輩?ここやろ? 氷音先輩?」
焦ったように私の名を呼び続けるのは、間違いなく高波さんの声。
「氷音先輩、あの、ウチ・・・堪忍や。やりすぎてしもたかなぁ。」
謝らないで、高波さん。あなたは、悪くないの・・・。
その声も、私の喉まで上がってきたのに、結局飛び出さない。
自分の不甲斐無さに握り締めた拳の爪が掌に食い込んでも、この程度の痛みでは贖えないと思う。
「氷音先輩がな、ウチの香水に気付いてくれた思たら嬉しなってしもて、ほんま、ゴメンやって。」
また何度か扉が叩かれて、閂式の鍵がぶつかる音が響き渡る。
本当にダメだ・・・私は。
私が謝らないといけないのに、先に高波さんに謝らせてしまった。
自分がちゃんと、言葉にしていたら。
「氷音先輩・・・ウチ、ほんまに反省してる。お願いやから、出てきてー。ほんまに・・・許して・・・」
ガタタン!と、扉が一際大きな音を立てて、しーんと静まり返る。
謝らないと・・・
決意を秘めた顔を上げ、私は扉の、鍵を、開ける。
「たかみさ・・・」
鍵を開けた途端、扉が急激に内側に開いて高波さんが倒れ込んで来た。
「きゃぁっ!」
恐らく扉にもたれ掛かっていたのだろう。
勢いの付いた小柄なその身体を、腿の上で向かい合わせに受け止める体勢になってしまった。
「!!」
高波さんの顔が、近い。
私の膝に座ったことで、ちょうど私の顔と同じ高さに高波さんの顔がある。
「ご、ご、ごめんなさい!高波さん!大丈夫?」
「だ、大丈夫・・・や、けど・・・」
至近距離で出すには不要なほど大きな声が出てしまったせいか、ビックリした顔のままだった高波さんが、
更にビックリした顔になった。
立ち上がろうとする高波さんに何としてでも謝る為、思わず腰にしがみつくように引き止める。
「待って、高波さん!・・・謝るのは私の方!」
しっかりと高波さんの目を見つめて、私は言葉を続ける。
「その・・・勝手に匂いかいだりして、いい匂いだったから、つい・・・」
「氷音先輩・・・」
高波さんも私の思いを受け止めてくれているのか、しっかり私を見つめ返している。
「私が素直に言えないばっかりに、高波さんにこんな思いをさせてしまって・・・ごめんなさい。」
思った以上にすらすらと言葉が私の口から流れていくと同時に、じわじわと視界が滲んでいく。
「んーん、ウチこそ、それ知っててわざと意地悪して、先輩の事泣かしてしもたんやもん。ごめんなぁ。」
す・・・と、高波さんの親指が私の視界の曇りと、私の心の曇りを、同時に拭い取ってくれる。
初めて、高波さんと心が通じた瞬間だと実感した。
腰を捕まえていた手は、いつしか高波さんの背中に回して抱き締めていた。
私の視界は高波さんの左耳と、茶色く波打つ少しだけ痛んだ髪に占められていて、呼吸をする度に高波さんの
甘い香りに抱かれている気持ちになる。
回した両手に、高波さんの背中が大きく膨らんだ感じがした。
「氷音先輩も、えぇ匂いや・・・なんや安心できる匂いやわぁ。」
高波さんは私の肩に頭を預けたまま、その香水のような甘い声で私に囁いた。
私は香水は付けてないけど、シャンプーか服の匂いのことを言ってるのかしら?
それが何であっても『いい匂い』って言ってもらえるのは、なんだか嬉しい。
高波さんの頭の重さが私から離れた気がしたと思ったら、私の顔の正面で一度小さく微笑んだそれが
ゆっくりと目を閉じて近づいてきて、私の唇に柔らかい感触が訪れた。
高波さんの動きはあまりにも自然で、私も当然のようにそれを受け入れる。
愛しい人の背中に回した手を無意識に強く抱き寄せて、私はその瞬間を心に刻み込む。
私の好きな人が、高波さんでよかった・・・
そんな思いを伝えるように、ただただ唇を重ねる感触と、抱きしめた身体の重さに酔いしれる。
でもすぐに息が続かなくなって、どちらからともなく顔を離すと、見詰め合った恥ずかしさでまた声が出ない。