Incommensurate  その3


昨年  8月30日

 

私がこの店の敷居を跨げるのは、客として来る時と、用事があって呼ばれた時だけ。
昔から、両親にはきつくそう言われて育てられた。

山の手にこの店ありと言われ一世紀。
料亭『蔵なだ』

商店街から少し入った住宅地にほど近い場所に、都会の喧騒を忘れそうな閑静な佇まい。
マスコミには取材拒否の為、隠れた名店としてお忍びで訪れる有名人や著名人も多いんだとか。

まぁ、私の友達にそんな話をしたとしても縁の無い世界の話だろうから、特に自慢した事は無い。
それに『料亭の娘』というだけで、変なレッテルを張られたりするのが私は嫌なのだ。
女将として跡を継ぐことを決めている姉がいる以上、私はこの店には無関係と親に定められている。
だから、折角残り2日の夏休みに呼ばれた今、気分も足取りも、重い。

家から店までは静かな住宅地を歩いて8分。
用事で入る時の決まりで、私は裏手の従業員用勝手口へと向かう。
そこには丁度、食材納品の業者さんがいて、板前見習いの坂田さんが対応している所だった。
「どうも御世話様ですー。」
板前帽子を取って大きく頭を下げながら業者さんを見送り、顔を上げた彼がこちらに気付いた。

「あ、塔子お嬢。 如何なさいました?」
4つも年上の男の人に敬語を使われるのは、どうも苦手。
彼からしてみれば、経営者の娘なんだから当たり前の対応なのだと割り切れるようになったのは、最近の事。
「坂田さん、お疲れ様です。 ちょっと顔色が悪いんじゃないですか?」
見れば目の下には結構わかりやすくクマが出来ており、口元の力が弱い気がした。
「そ、そんな事ないですよ! 元気です! 俺、元気だけが取り柄ですから!」
「あまり頑張り過ぎないで下さいね。」
明らかな虚勢に、思わず笑みが零れてしまう。

「お嬢・・・ありがとうございます!」
つられたのか、笑顔を浮かべた彼は大きく頭を下げて一番大きな声で感謝を述べた。
先輩にも、業者さんにも、うちの親にも、彼はこうして毎日大きく頭を下げ続けているのだろう。
「いえ・・・ で、母に呼ばれたんですけど、いますか?」
「あ、す、すみません、話し込んじゃいまして。 女将さんなら確かご来客中で・・・ あ、俺、呼んできます!」

そういうや否や、坂田さんは駆け足で店内へと引き返し、そしてあっという間に戻って来た。
「女将さんから、入るようにとの事です。 案内します。」
張りつめた活気が支配している板場に一声掛けてその隅を抜け、私は客室の一つの前にやって来た。

「失礼します。 女将さん、塔子お嬢です。」
廊下に手をつきながら、坂田さんが声を掛けて襖を開けた。
「どうぞ。」

母の声に促されて、私は開いた襖の正面に立つ。
最上の、和のもてなし空間にいる人物は3人。
下手には仕事着である和服に身を包んだ母、上座には野暮ったい服装の中年の白人男性と金髪の白人少女。
「失礼します・・・」
状況が理解できなかったので、私の言葉は口元でもぞもぞと固まった。
でも・・・この中年の男性には見覚えがある。

「hi, 塔子さん、お久しぶり。 すっかり綺麗になって。」
外国人とは思えない、流暢な日本語で挨拶をする彼が少し顔を赤くしているのは必然。
男性の前に供された膳の上には、徳利が2本と猪口が置いてある。
「お久しぶりです、ウィットフォードさん。」
促されるまま私が母の手前に正座すると、坂田さんは一礼して襖を閉め去って行った。

「塔子さん、うちの娘を宜しくお願いします!」
寛いでいた姿勢からわざわざ正座し直して、深々とウィットフォードさんが頭を下げた。
「不束者ですが、どうぞ良しなにお願い申し上げます。」
それに倣うように、娘と呼ばれた少女が父親と同じくらい深く頭を下げる。

・・・・・・はぁっ!?

「え、ちょ、な、何、あの、話が見えないんですけど・・・」
突然の事態に取り乱す私の横で、この慌てぶりを見た母が小さく噴き出した。
「haha! 冗談です。American jokeです。」
陽気なほろ酔いオヤジと化しているウィットフォードさんが、両手を広げて笑いながら足を崩す。
服装も相まって、この姿だけ見たらとてもこの人が『教授』なんて肩書を持っているとは思えない。

「塔子。 ウィットフォードさんの娘さんがいらしたのは、留学の為だそうです。」
「はぁ・・・」
3人にしてはめられたことに機嫌を損ねた私に、母が厳しくも穏やかな口調でそう説明する。
「ジェシカさんは塔子の通う明進高校への留学だそうですから、うちでお預かりする事にしました。」
「えぇっ! そうなの!?」
突然すぎて、いくら家族ぐるみで親交のあるウィットフォードさん相手とは言え、つい丁寧語が崩れてしまった。
そんな、私にも関係のあることならどうしてもっと事前に相談してくれなかったのかと、怒りが込み上げる。

「夕方には荷物が到着します。 我が家の客間を使って頂きますので、ご案内なさい。」
「えぇぇっ! これから!?」
さっきから驚きっ放しの私を、出来上がり始めたウィットフォードさんは遠慮なく陽気に笑い飛ばす。
「トーコさん、私はジェシカ。 よろしくね。」
差し出された白い手を、どこか納得できない表情のまま、私は握り返した。
目を合わせた彼女の笑顔の可愛さは、きっと私のどこかをこの時から狂わせてしまっていたのだろう。


 

 

 

 

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