Never open doors   その36


9月 2日  凶雲   20:10

   place 地下室

 

「えぇ、もちろん。 頂いて行くわよ。」
空知さんが、校長先生の言葉に答えた。
這い寄る、混沌・・・?

何の事を言っているのか分からないわたくしの横を、しゅるりと空を切り裂いて黒い直線が走り抜けた。
直線は盛り上がった床の上の白い布に横たわる岩佐さんへと一直線に伸びて行く。
そして、岩佐さんの身体に絡み付くとあっという間に幾重もぐるぐる巻きにしてしまった。

突然の出来事に驚く暇も無く、その黒い紐によって岩佐さんの身体は宙に浮かび上がり、わたくし達の横を
すり抜けて空知さんの手元へと飛んで行った。
「な、何が、起きたの・・・?」
優緒さんが、恐る恐るというように、ゆっくりと後ろを振り返る。
わたくしも、久院さんも、それを見てようやく首を後ろへと廻らせることが出来た。

黒い紐は空知さんの左手の先から伸びていて、岩佐さんの身体はどういう訳か足が地面に着いていなかった。
そのうえ、わたくしは気付いてしまった。

黒い紐は、空知さんの手から放たれているのではなく、

空知さんの手首から先が黒く染まって、手そのものが伸びていたのだ、と。

「ひっ!」
その事実を知って、わたくしは思わず声を漏らし部屋の中央へと一歩後ずさる。
「どうしたの、潤里ちゃん?」
優緒さんの気遣いに、正直に答えて良いのかどうか迷ってしまい、わたくしはただ大きく2度頷く。

「それじゃ、私はこれで失礼するわね。」
「待って! 教えて、空知さん!」
振り絞るような声で、優緒さんが向きを変え立ち去ろうとする空知さんを引き留めた。
「岩佐さんを、どうするの?」
「それを聞いて、どうするの?」
優緒さんの質問に、空知さんは小さく溜息をついて小首を傾げながら、さもつまらなそうに唇を歪めた。

「無事に帰ってこられないなら、行かせるわけにはいかないわ。」
「川出さん、あなた、バカでしょう? 私に敵うと思ってるの?」
今度は一転して、空知さんの表情はわたくし達を見下し、嘲るような忍び笑いをくっくっと漏らした。
そして、空いていた右手を突き出すと、またしても手が黒い紐へと変化しわたくし達の横を通り抜ける。
手が変化する瞬間を目撃した優緒さんと久院さんが、一瞬身を竦ませたように見えた。

「ぐわっ!」
悲痛な叫び声と、ごりっという鈍い音は後方、部屋の奥から上がった。
気になってそちらを振り返るけど、空知さんに背を向ける事を本能が許してくれなかった。
そして、視界の端が捉えた情報は。

右腕と右脚に黒い紐の直撃を受けて、苦痛に顔を歪ませながら、校長先生の身体が崩れ落ちる瞬間だった。
「な、何をする! 『這い寄る混沌』!」
「あら・・・ ふふっ、ごめんあそばせ。 目測を誤ったわ。」
整った顔立ちに似つかわしくない、歯を剥き出しにする笑みを浮かべて空知さんは白々しく謝罪の句を述べる。
「空知、おまえ・・・」
久院さんが怒りを吐き出し、ウエストポーチから護身用の警棒を取り出して空知さんに向け構えを取る。

「くっくっ・・・ 野蛮ねぇ、久院さん。 そんな棒で私を叩こうだなんて、それだから都会人は。」
「関係ないでしょ! それより、仲間のはずの校長にどうしてそんな事をするの!?」
「どうして? もう、おまえら、どうしてどうしてってしつこいんだよ。」
自らに向かって伸びてきた黒い手の一撃を、久院さんは辛うじて手にした警棒で受け流す。

「私のやる事に理由なんて無いんだよ。 すべては白痴のアイツの望みを叶えてやる為。
バカな人間を利用して、アイツの餌を出させる為にちょっと口添えしただけなんだよ。 これで満足かい?」
もはや先程までの口調は微塵も感じられず、空知さんからは口汚い言葉が次々と飛び出してくる。

「利用、した、だと・・・」
苦しげな、途切れ途切れの校長の言葉が、狭い地下室に重々しく響く。
「そうだ。 仁志本、お前の前の校長、なんだったか名前も忘れてしまったが、そいつまでは全く私の言葉に
耳を傾けなかったというのに、お前だけは聞いてくれたな。 最初こそ私に否定的だったけど。なぁ?」
「くっ・・・ ニャルラトホテプよ、私を、誑かしたかっ!」
「あっはっはっは! 当たり前だ。 白痴のアイツに、人間の、たかだか学校を繁栄させる力なんてあるわけ
無いだろう。 まぁ、地球を滅ぼすぐらいなら造作も無いだろうけどな。 あっはっは!」

二人の間で交わされる会話について行けず、仰け反らんばかりの姿勢で高笑いを続ける空知さんをわたくしは
ただ茫然と、見守るしかなかった。

「さてと・・・ もう飽きたわ。 じゃぁ、仁志本、最後にお前の望みを叶えてあげる。」
「何だと・・・? もう騙されんぞ。」
「騙すなんて人聞きの悪い。 さっき言ったでしょう。 ゴミ共をまとめて始末してあげるって。」

邪悪な、下劣な、悪意に満ち溢れた笑みを浮かべた空知さん・・・いや、ニャルラトホテプは黒い手の一撃を
部屋の奥の壁にドスンと打ち込んだ。
ボコボコと、壁を貫通して伸び続ける黒い手が進んだ先には。
「や、やめろ!」

プシュッ!
小気味の良い水飛沫の音と同時に、黒い手は壁から抜けニャルラトホテプの元へと戻って行った。
そう、学校のある高台の上からかなり地下深くへ降りてきたのだから、この壁の向こうは学校の崖下を流れる
川になっているはず。
ニャルラトホテプが壁を突き破って、川の水をこの地下室に導き入れてしまったようだ!
浸入する水の勢いはすぐに強くなり、床に水溜りを作り始める。

「くっくっく・・・ それでは、皆さん、ごきげんよう。」
ギィと音を立てて、ニャルラトホテプは岩佐さんを片手にドアの向こうへ消えてしまった。
そして、ボゴンッと大きな音が一度扉から響き渡る。

「くっ! 開かない!」
異変に気付いた久院さんがドアノブを捻りながら必死で扉を開けようとするも、どうやらニャルラトホテプの
一撃で扉自体が歪んだのか、どう頑張っても開く気配が見えない。

「湖那! 湖那、起きて!」
優緒さんが壁に拘束されたまま動かない軽手さんに駆け寄って何度も揺さぶりながら声を掛ける。

わたくしは・・・
わたくしに出来る事は・・・
何かをしなくてはいけない、このままでは・・・
一人でボーっとしている訳にもいかないと我に返ったわたくしの視界に入ったのは、だらりと腕と足を
伸ばしたまま床に座り込み、呆然としている仁志本校長先生だった。


 

 

 

 

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