Never open doors   その37


9月 2日  凶雲   20:16

   place 地下室

 

「校長先生、わたくし達は、どうしたら・・・」
どばどばと川の水が流れ込んでくる亀裂のすぐ傍で、わたくしが呼びかけると校長先生はゆっくり顔を上げた。
「終わりだ・・・ 私は、終わりだ・・・」
そう呟きながらこちらを向き、目が合った瞬間。
ぞわりと背筋が震えた。

校長先生の目には、何というか『心』が存在しなかった。
こちらを向いているのに、わたくしではない『なにか』を見詰めているような、もしくは、わたくし達には
見えないはずのものが見えているような、いずれにせよ不気味で空虚な眼差しが向けられたのだから。

結局、わたくしはそれ以上校長先生に話しかける事が出来なくなってしまい、周囲を見回す。
「湖那! 湖那ったら!」
優緒さんが軽手さんを揺さぶる勢いは激しくなっていて、もはや壁に叩きつけているようにすら感じられる。
「あぁ!もう! 開いて!開いてよ!」
久院さんはドアを押すのを諦め、ガンガンと蹴りつけ始めた。
コンクリートの壁を貫くような一撃を受けて歪んだ扉が、それで直るとは到底思えない・・・

「校長先生。 ニャルラトホテプとは、何があったんですか?」
わたくしが口にした、あの忌むべき存在の名に、校長先生がピクリと反応した。
「や、やめろ! その名を、軽々しく口にしてはいけない!」
明らかに取り乱して、校長は怯えたように何度も首を振りながら、無事な左手で頭をかきむしる。

「あいつは、邪悪な存在なんだ。 邪悪なんて一言じゃ到底足りない、とんでもない、ありえない、恐るべき、
あぁ、とても言葉が足りない、ほんの一瞬でも、あいつに隙を突かれたら、もう、抗えない・・・」
自分の過去を悔い噛み締めているのか、校長先生の表情は、もうおそらく今映っている物は見えていないのでは
ないかと思わせる、苦々しい想いに満ちている。

パキッ!
突如、校長先生が左手の指を鳴らした。
「・・・っ・・・う・・・」
「こ・・・湖那!」
今まさに大きく振りかぶった右拳を振り下ろさんとしていた優緒さんが、慌ててそれを中止する。
「えっ、こ、こは?」
状況の理解できていない軽手さんが、足首まで水に浸っている現状に驚いて周囲を見回した。
「湖那! よかった・・・」
「優緒・・・ちょ、どうなってるの?」
目を覚ました事に喜びを隠せない優緒さんが、軽手さんを強く抱き締める。
ただ・・・両腕を拘束されている軽手さんには優緒さんに手を回してあげる事は出来ないけれど。

「あはは・・・あたしたち、閉じ込められちゃったんだよね。」
軽手さんの目覚めに気付いた久院さんも扉を蹴るのを止め、ざばざばと水を踏みしめながらこちらに来た。
「え、ええぇっ!」
取り乱し、軽手さんが両腕の鎖を解こうとジャラジャラ引っ張るも外れそうな気配はない。

「これを使いなさい。」
校長先生が水に浸り始めたズボンの右のポケットを、取りにくそうに左手でまさぐり取り出したのは小さな鍵。
優緒さんが、複雑な表情でそれを受け取って軽手さんを解放する。

「校長先生。 すみません、校長先生の事、守口先生の事、そして『留学』の事、調べさせてもらいました。」
解放された軽手さんが、校長先生の正面に立つために、わたくしは今立っている場所を譲った。
「新聞部か。 私が中学生だった頃、君と同じように、私も新聞部だった。 それ故に、部員が君一人でも
廃部にすることが出来なかったんだよ。 ・・・君は、この事を書くのかね?」
思い出に浸るというよりは、やはり校長先生の表情は重々しく焦りと苛立ちに支配されているみたい。
それでも口調が穏やかになったあたりから、もうわたくし達に敵対する事は無いと思いたい。

「たぶん、書かないと思います。」
意外にも、軽手さんはそう即答した。
「賢明だ。 書いたところで、誰も信じないだろうしな。 アレは、そう言った常識とはあまりにも掛け離れた
位置に存在している。 それに、もし、それを信じる者が出てきたら・・・ わかるね?」
『自分のような者が現れる事になる。』と、校長先生は言いたいのだろう。
だから、軽手さんもただ一度、小さく頷いただけで、敢えてそれを言おうとはしなかった。

「校長先生は、ニャルラトホテプを撃退しようとしていたんですよね? なのに、何故・・・」
「そこまで調べたのか・・・ 私が甘かったんだ、アレは到底、人類では太刀打ちできない程の力を持っていた。
それを『旧神の印』程度で抑制できると思ったのが、そもそもの過ちだったのだ。」
深く溜息をつき、校長先生は尻まで水に浸かりながら重々しく語り始めた。

「我が校の創立よりも前から、アレは初代の校長に付き纏っていたらしいのだが、どうやら二代目の校長
権田 義治 氏が、在任中からアレを退治する方法を探っていたようでね。 私も赴任してきた当初は全く
荒唐無稽な話だと思っていたよ。」
当然よね。
出向してきた学校に化け物がいるなんて、にわかに信じられるはずがない。

「だが、実際にアレは私の前に現れた。 そして詳しく事態を知らない私に様々な恩恵を与えようと言い出した。
だから、知り合いを頼り、私は独自にアレに対抗する手段を探り始めた。」
「それが『セラエノ断章』ですね?」
軽手さんが、カメラのディスプレイになにか星の形の様なものを映し出し、校長先生の顔の前に突きつけた。
「君、勝手に引き出しを開けたのか。」
「すみません。 緊急事態だったものですから。」
「・・・・・・ まぁいい。説明する手間が省けた。 ただ、他所でやるんじゃないぞ。」
「はい。すみません。 わたしも、望んでこんな事はしたくありません。」
呆れながらも軽手さんを諭す校長先生は、やっぱり教育者なんだとわたくしは感じた。

「それを手に入れた私は、逆にアレを利用してやろうと考え始めた。 その試みは成功していたと思って
いたが、今日分かったよ。 アレは私を蝕みながら、利用されている振りをしていただけだったのだと。」
「それで・・・許される事ではありませんよ、校長先生。 あなたは、岩佐さんを犠牲にしたんです。」
久院さんが、軽手さんの横に立って腕を組む。
「ふふ、諦めが良いな。 取り返そうとは思わないのかね?」
校長は、意味ありげに含み笑いを溢す。

「取り返すって言ったって、どうやって外に出るんですか! 出来る訳が・・・」
絶望的な状況に怒り心頭な久院さんが言いかけた言葉を、校長先生が遮った。
「私には『門』を作る呪文がある。 空間を繋ぎ、別の場所へ移動するための呪文だ。 ただし、今の私の
精神力で創りだせる『門』はせいぜい一人分が良い所だ。 さぁ、どうするかね?」


 

 

 

 

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