Never open doors   その39


9月 2日  凶雲   20:24

side 湖那   place 地下室 → 校庭

 

校長先生が開けた門は『空間の裂け目』と呼べばいいのだろうか、とにかく、突然何もない空間が割れて、
その向こうに見慣れた校庭の景色が映し出されたのだ。
「さあ、行け!」
校長が長く続いた呪文の詠唱を終えてそう叫ぶや、『門』は徐々に形を小さくしていく。

意を決し、わたしはクイーンに小さく目配せして裂け目に飛び込んだ!

 

 

 

 

『門』を抜ける感覚と言えそうなものは、特に何も感じなかった。
いわゆる空間の歪みを落ちて行くだとか、何か得体の知れない光の渦に包まれたりとか、そう言った違和感は
何も無く、文字通り、それは本当に普通に一歩を踏み出しただけの、一瞬の出来事に過ぎなかった。
わたしが飛び出して来た空間、後ろで聞こえていた水の音はすぐに聞こえなくなり、自身が温くも新鮮な空気に
包まれている事を実感する。
振り返っても、もうそこには夜闇に聳え立つ校舎しか見えない。

いや・・・
振り返ってる時間なんか無い。
わたしは意を決して、校門を見遣る。
そこには、微動だにせず主の帰りを待つ・・・シャンタク鳥、と校長が呼んだ化け物が佇んでいる。

良かった。
まだニャルラトホテプは戻って来ていないようだ。
とはいえ、戦って勝てそうな相手でない事は間違いない。
わたしは校長先生から託された品物を左手に握り締め、体育館の陰へと移動する。
地下から出てきた直後にバッティングしないよう、マンホールを見張る為に。

風ひとつない重い空気の中で、わたしは自分の鼓動の音だけを感じている気さえしてきた。
一歩間違えば、わたしはあの邪神に殺されてしまうかもしれない。
岩佐さんを取り返すことも、皆を助ける事も、出来なくなってしまう。
空いた手が、無意識に首から下げたカメラに伸びて、ディスプレイに映し出されたままの呪文をなぞる。

『クトゥグアの招来』・・・
それがどんなものなのか、何が起こるのかは、知らない。
ただ校長が言った通りに、行動するしかない。

 

それが、皆を救う、最後の手段だというのなら、わたしは・・・

 

どれほどの時間が経ったか、望ましくないものを待っていたから思った以上に長く感じたのかも知れない。
ずるり、とマンホールから黒い影が這い出した。
それは紛れも無く空知 愛那・・・の姿をしているニャルラトホテプと、『手に握られている』岩佐さん。
周囲を気にする様子も無く、彼女・・・?は、シャンタク鳥の方へと近づいて行く。

シャンタク鳥は主の帰還に気付いたのか、長く捻れた首をそちらに向けて脚を踏み出した。

今! 今しかない!

わたしは緊張と、恐怖と、興奮で強張る身体を、ほんの僅かに持ち合わせる勇気で弾き飛ばして、体育館の
陰から飛び出した。

「ニャルラトホテプ!」
呼ばれた後姿はピタリと足を止め、振り返ることすらしない。
「岩佐さんを・・・返し、なさい。」
声が震えているのが、自分でも分かる。
わたしが語り掛けているのは、間違いなく『人間ではないもの』なのだ。
ほんの数時間前まで、そんなことも知らずに話しかけていた事が、恐ろしく思える。

「ふぅ・・・ どうやって出て来たかは知らないけど、まだ諦めないの?」
その声は、わたしに対して完全に後ろ向きなのに、まるですぐ目の前にいるかのように明瞭に聞こえてきた。
「それに、コレはあなたの物じゃないわ。 だから誰かに返す物でもない、そうでしょ?」
「そんな屁理屈を聞きに来た訳じゃないの。 校長が言ってたでしょ? 岩佐さんはこの学校の代表なの。
そんな人物を失う訳には行かないの。」
屁理屈に屁理屈で返している事は、百も承知だけど。
ただ助けたいから、そんな弱い理由じゃはったりにもならないと思ったからだ。

「では、お前は地球が滅びても構わないというのか? こいつの命一つでそれが先延ばしになるんだ。
安い買い物だとは思えないかね? それとも、地球を犠牲にしてまで、本当にお前はこいつを助けたいのか?」
ニャルラトホテプの口調が変わった。
言いながらほんの少しだけこちらを振り向いたニャルラトホテプの顔の左側に掛かる長い髪の向こうで、邪神が
下卑た笑みを浮かべながら全てを嘲っている事など、わたしには知る由も無い。

「地球が滅びるなんて・・・ 信じられない。」
いくらなんでも、そんな話は突拍子も無さ過ぎる。
校長が言ってた宇宙の叡智だかがどれほどの力を持っているのかは知らないけど、信じろと言う方が無理だ。
「はぁ・・・私はね、まだ地球に滅びて欲しくはないんだ。 こう見えても、人間は好きだからな。」
「えっ?」
意外な言葉が、ニャルラトホテプの口から発せられた。

「愚かで、弱くて、脆くて、簡単に死ぬくせに、神をも恐れぬ傍若無人な振る舞いをする、そんな馬鹿な人間が、
愛おしくて堪らないんだ。 何故だか分かるか?」
一瞬期待したわたしが甘かったと、直後の質問で悟らされた。
わたし達人間の立場で言えば、このような邪悪な存在に期待など、抱くべきではないのだ。
校長が身をもって教えてくれた事を、今一度、わたしは胸の奥で噛み締める。

「分からぬか、まぁ、お前も人間だ、それも仕方あるまい。 教えてやろう。 それはな・・・」
邪神の惑わしなど、聞く耳持たないと思うのに、わたしは耳を塞ごうとは思わない。
話を進めれば進めるほど、語る者が有利になっていくと解っているのに、それでもわたしは。

屈するつもりなどない!

「人間が、神の本当の恐ろしさを知らないからだよ。 その片鱗に触れた時の、人間共の心が砕け散る瞬間、
私好みな最高の表情を浮かべるんだ。 それが見られなくなるのは・・・もう少し先で良い。」
くっくっと、邪悪な含み笑いを漏らしながら、ニャルラトホテプはシャンタク鳥の方へと歩を進める。
まるで、今は生かしておいてやるから岩佐さんをよこせと言わんばかりの態度に、私のこめかみが震える。

諦めない! わたしは、諦めない!!

それでわたしを言い負かしたつもり?

「ニャルラトホテプ・・・」
喉の奥から無意識に零れた微かな声に、再び邪神が足を止める。
「だったらあんたは、さぞ、神の本当の恐ろしさを知ってるんでしょうね。」
わたしは、校長から託された品物・・・ジッポライターのフタをシャキンと親指で開け、顔の前で点火する。
そしてカメラのディスプレイに映し出されている呪文を、意識を火に集中させながら、唱える。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ふぉまるはうと んがあ ぐあ なふるたぐん いあ くとぅぐあ
 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ・・・・・・

 

 

 

 

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