Never open doors   その41


9月 2日  凶雲   20:40

side 優緒/潤里/清良/校長   place 地下室 

 

湖那か、路美花ちゃん、早く来てくれないかしら。

ぬるくて少し生臭いような川の水に肩まで浸かりながら、私はただそんな事だけを考えていた。
路美花ちゃんが穴を上るための道具を探しに行ってすぐ、壁の穴の周囲が崩れて浸水のスピードが増したので、
3人で校長を助けながら、私達は部屋の中央の岩佐さんが寝かされていた盛り上がり箇所に避難した。

この調子で水かさが増すと、おそらく天井までは15分も持たない。
他の3人より少しだけ背の低い私は、もうすぐ足を離さないといけなくなる。
狭い足場の上で、潤里ちゃんはずっと腰の傷を押さえて痛そうな表情をしている清良さんを励ましていて、
校長は無事な左手をぎこちなく使いながら、水に浸からないよう必死に携帯電話をぽちぽち操作し続けている。
そんなわけで、やる事の無い私は床から足を離すついでに天井の穴の下へと泳いで行こうとした。

「君。」
不意に、校長が声を掛けて来て驚く。
「ここを出たら、すぐにやって欲しい事がある。 頼めるかね?」
真剣なのに、心ここに非ずといった感じで校長が訴えてくるので、雰囲気に押されて頷いてしまう。

「さっきの新聞部の彼女。 私が行使するように言ったのは間違いなく『クトゥグアの招来』の呪文だ。
ただ、本当にクトゥグアを召喚するためには特殊な条件が揃わなければならない。 だから、呪文は恐らく
失敗するはずだ。」
「呪文が失敗、って、じゃぁ、湖那が呪文を使おうとしても、それは不発になって、湖那は・・・どうなるんです?」
頼りにしていた呪文が不発に終わるだなんて、絶望しか見えない。
最初から失敗するってわかっているのに、それじゃ湖那は、騙されて死地に赴いたようなものじゃない。

思わず私が校長を睨みつけて掴みかかりそうになったのを察してか、校長は素早く言葉を続ける。
「呪文は失敗するが、何も起こらない訳じゃない。 クトゥグアではなく、別の者がやって来るからな。」
もう、校長が何を言っているのかが分からない。
混乱しそうになる頭を、持ち前のオカルトの知識に変換してなんとか理解しようと試みる。
「やって来るのは、クトゥグアに匹敵する戦闘力の持ち主とも言われる『ヤマンソ』というその眷属だろう。
ただ『それ』はとんでもない暴れん坊でね。 もしかしたら、呼び出されて大暴れするかもしれない。」

大暴れ・・・
想像もつかない化け物の大暴れなんて、何が起こるのだろう。
「そこでだ。 君達が地上に戻ったら『ヤマンソ』を『退散』させる呪文で、あるべき場所に送り返して欲しい。
なに、これに関しては難しい呪文なんかは必要ない。」
あぁ、もう、訳が分からないなら、ありのまま、受け入れてやろうじゃない。
「どういう、事ですか?」
自分でもよく分からない、そんな拠り所の無い覚悟が生まれて、私は話を促す。

「念じて、ただ一言発するだけだ。 『いなくなれ』と。」
「そ、それだけですか?」
校長の自信ありげな表情も信じ切れず、拍子抜けした私は聞き返した。
「そうだ。 ただし『ヤマンソ』の抵抗次第では効果を発しない事もある。 だから、君たち全員で、同時に、
心を一つにして巨大な意志の塊と成し、それをぶつけるんだ。」

「校長、そんな事で、本当に効き目があるんですか?」
話を聞いていたのか、清良さんが口を挟んできた。
「鰯の頭も信心から。 どのみちそんな強力な眷属が現れたりしたら、私達に出来るのは祈る事くらいだ。」
くっくっという自嘲気味な笑いには、すっかり少し前までの狂気的な気配は感じられなくなっている。

「みんなー!おまたせー!」
待ちわびた声が、残り少なくなった空間に響き渡った。
ガシャガシャと言う音と共に何かが穴から落ちてきてボチャンと水面を突き破った。
よく見なくても、それが災害時に窓から出る為の避難用梯子だとすぐに解った。
やるじゃない、路美花ちゃん。
安堵からか、感心して無意識に微笑みが浮かんでしまう。

「あ、支えが壊れたら困るから、一人ずつ登って来てね!」
路美花ちゃんからの注文に疑問を感じつつ、皆が顔を見合わせる。
天井までの空間はあと60センチくらい・・・ もうすぐ不気味なシャンデリアは水没してしまうだろうけど、
まだ空間はあるし、なんとか全員間に合いそうね。
ふと見れば、潤里ちゃんと清良さんは支え合いながらお互いに安堵の笑みを浮かべている。

「さぁ、校長先生、行きましょう。 一番酷い怪我をしている校長先生から上って下さい。」
潤里ちゃんの一言に校長は大きく首を振る。
「ふふ。 生徒よりも先に上る教師がいる訳が無かろう。 さぁ、行きたまえ。」
「・・・分かりました。 じゃぁ、久院さん。行きましょう。」
清良さんの怪我を推し量り、私も二人を先に行かせる事に異存はない。

水面をゆっくりと梯子へ向かう後姿を見送る校長が、私に先程まで弄っていた携帯電話を差し出してきた。
「これを持って行きなさい。 少しは、君達の助けになるはずだ。」
「・・・わかりました。お預かりします。 でも校長、一緒に来てくれるんじゃないんですか?」
水面の上で、なるべく水が付かなくする為に摘む形でそれを受け取る。

「私は脚が折れている。 そんな私を気にする時間があったら、一刻も早く地上に行くべきじゃないかね。
私も君達の後を追ってここを出るから、心配はいらない。」
力強く頷く校長を見て、私はようやくこの人を信じる気になって来た。
「わかりました。 では、お先に失礼します。」
小さく会釈して、私は片手を上げた不自然な体勢のまま泳ぎ、梯子の元へ向かう。
「使い終わったら、その電話は守口君に渡しておいてくれ。 ・・・くれぐれも、頼んだよ。」

上りづらい不安定な細い梯子に、ゆっくりと手を掛ける。
全身に纏わりついていた川水がじゃばじゃばと流れ落ちて行くと同時に、助かったという安堵感が全身に
漲って来て、これまでの疲れを忘れさせてくれるみたい。
だけど、まだ終わりじゃない。
今度は私達が湖那を助けなきゃいけないかもしれないんだから。

路美花ちゃんが持つ懐中電灯に照らされながら、真っ暗な穴を上っていく。
固定されているはずの梯子が恐ろしく揺れるものだから、つい上を見上げてしまった。
暗くてよく分からないけど、どうやら梯子は窓枠に引っ掛けて固定するためのものらしかった。
それを路美花ちゃんは穴に掃除用のモップを渡し、その柄に梯子をひっかけていたようだった!
確かに、モップに2人もの体重が掛かったら折れちゃうでしょうね。

そんな状況に苦笑が浮かぶくらいには、私にも余裕が出てきたみたいで、穴の縁に差し出された路美花ちゃんの
手を取り、身体を真っ暗な通路に放り出す。

「校長、どうぞ!」
水を滴らせながら穴を覗き込み、私は大声でそれを知らせる。
しかし、合図に対して、梯子の軋む音ではなく返事が帰って来るとは思わなかった。

「済まない、片手で上るのは時間が掛かりそうだ。 先に行ってくれないか。」
「わかりました、お気をつけてー!」
校長に向け、路美花ちゃんが大声で返答を返す。
その時までは、私は何も疑問に感じる事は無かった。
それは、他の皆も同じだったはず。
穴の下からくる僅かな光の中でその声に安心して皆は顔を見合わせ、階段へと向かったのだから。

「頼んだぞ、全ては君達に掛かっている。 守口君と岩佐君には、申し訳なかったと伝え・・・」
その言葉に、足を止めて後ろを振り返ったのは、私だけだった。

穴の下を照らしていた暗い灯りが天井近くなって微かに上へ反射していたのを、私は覚えていた。
なのに、その言葉は途中で止まり、その数秒の後に穴から漏れていた光が途絶えた。

私達が今しがた上って来た穴の近辺は、再び真闇に閉ざされてしまったけど、今はまだ・・・
その意味に気付くことが出来なかった。


 

 

 

 

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