Never open doors   その42


9月 2日  凶雲   20:48

side 湖那   place 校庭 

 

「なにっ! その呪文は!」
意識を火と呪文に集中していたわたしには気付く事が出来なかったけど、ニャルラトホテプの表情には、今日
初めての焦りの色が浮かんでいる。
「いや、しかし・・・ そんなはずは・・・」
ぶつぶつと独り言を言い始める邪神を他所に、わたしは召喚の呪文を3度繰り返してそれを完遂した。

 

ゆらり・・・

 

                           ゆら・・・

 

           ゆらぁ・・・

 

ライターの小さな火が、風もなく、わたしの手の震えのせいでもなく、ひとりでに大きく揺らめく。

「バ、バカな!」
先程まで会話で見せていた余裕は微塵も無く、焦燥に駆られてニャルラトホテプが伸ばしてきた右手は
私の持つライターのほんの少し左へ逸れて、空を切った。

そして、その時は、静かに、やってきた。
音も無く、唐突に、やってきた。

踊るように揺れていた火がライター本体を離れ、花びらの如く宙に浮かんだと思った、次の瞬間。

ぶわっ!

火というものは、可燃性物質が存在しなければ『燃える』事が出来ないはず。
なのに、その小さな火は突如膨れ上がり、輪のような形で中心に3つの小さな炎を湛えたものとなったのだ。
これが・・・ クトゥグア・・・ ?
ぞくりと、脳が身震いした。
胸の奥が、炙られた蝋燭のようにドロドロと音をたてて溶けていくみたい。
何も無い空中に浮かぶ火の塊は、まるでわたしの心を燃やしているかのように、強く、妖しく、佇んでいる。

「ふ、ふふ・・・」
あの、邪悪な含み笑いが、またしてもわたしの耳に届いた。
「そうだよな、今、彼奴が現れるなどあるはずがない。 ふふ、ふふふ・・・」
ニャルラトホテプは、何を言っているのだろうか。
勝手に自分一人で納得していて、話が見えてこない。

すると、私の頭の上で静止していたサッカーボールほどの大きさの炎の輪が、突然勢いよく落ちてきた。
禍々しく、不吉な、不自然な程に、赤い、紅い、火の神が、わたし目がけて襲いかかって来る!

「きゃあっ!」
私は咄嗟に、カメラを握り締めたままの右手を、頭を庇うように掲げる。
例えそれが、何の意味も為さずそのまま降り注ぐことになろうとも、本能的に、身体がそう動いた。
「『ヤマンソ』を呼んで『支配』すらしないとは、バカめ。 死ね。」
ニャルラトホテプの死の宣告が、歪んだ笑みと共に投げかけられた。

・・・

・・・・・・

恐る恐る、目を開けて見上げると、炎の塊は翳されたカメラの直前で動きを止めていた。
そのディスプレイに映し出されていたのは。

燃える目を抱いた、五芒星。

「ふん。 『旧神の印』か。 だが、そうはさせ・・・」
不愉快そうに吐き捨てたニャルラトホテプは、そこで言葉を止めると、足を一歩、たった一歩だが退かせた。

そう、攻撃を阻まれ矛先を失った火の円環が、狂ったように辺りを跳ね回り始めたのだ。
そこには、何の思考も、感情も、感じられない。
ただ、存在するもの全てを破壊しようとしているのか、炎塊は不意にニャルラトホテプへと躍りかかった。
「くっ!」
邪神は身をかわしたものの、漆黒の左腕が火片に触れて握っていた岩佐さんを取り落とす。

「岩佐さん!」
支えを失い崩れ落ちた岩佐さんを助けに行く為、無分別に跳び回る炎に阻まれながらも邪神の足元へ辿り着く。
「そんなものを解き放ってしまうとは、愚かな・・・ お前らは、自ら破滅を選んだのだ。」
岩佐さんを炎から護る為、わたしはカメラのディスプレイを構えながらニャルラトホテプを見上げる。

「だが、その愚かさは実に人間らしい。 ふふ、ただヤマンソにくれてやるだけというのは少々惜しいな。」
何を思いついたのか、ニャルラトホテプが嗜虐的に唇を歪めながら私を見下ろす。
しかし、そう言っただけで攻撃もしないまま、ニャルラトホテプは嬉しそうにくるりと踵を返した。
途中2度ほど『ヤマンソ』と自らが呼んだものの攻撃を避け、邪神はシャンタク鳥に飛び乗る。

「人間。 今回は退いてやる。」
「あつっ! ・・・逃げるの?」
散々人を馬鹿にしておきながら今更逃げるだなんて、やっぱり考えてることが全く分からない。
「そうとも、お前らはそうなって欲しかったんだろう? 良かったじゃないか、目標達成だ。おめでとう。」
ぱちぱちと小さく手を打つ邪神を、わたしは炎に取り囲まれながら睨み返す。

「もう、二度と現れないで!」
ありったけの呪詛を込め、憎らしくていやらしい笑みを浮かべ続けるニャルラトホテプに言い放つ。
「目標達成のご褒美に、私の真の姿を見てから灰も残さず死ぬがいい。 くっくっ・・・ さらばだ。」

・・・真の、姿。
言っている意味は、相変わらず分からなかった。
けど、本能的に、わたしはそれを見てはいけないと感じた。

なのに、どうして、目を逸らすことが出来ないの?
あぁ、そんなもの、見たくない。
目の前で、シャンタク鳥の上に乗った空知 愛奈の形をしていたものが、
内側から弾けるように、
ズルズルと形を変えてゆく。

腕が黒い紐に変化したのは、先程までに見ていたから知っていた。
でも、
   でも、

黒い紐は腕だけではなかった。
いや、『空知さんの中身が、全て黒い紐だった』と表現したらいいのかもしれない。
空知さんだった頃の体積よりも、遥かに大量の黒い紐状の物体が蠢き、絡まり、のたくりながら、膨れていく。

伸長と収縮を繰り返しながら、紐・・・ いや、もはやそれは紐ですらない、ぶよぶよした太細の物体で、
数メートルの高さまで伸びあがったその固まりの先端は、顔のない円錐形の頭部に集約されている。
それが頭だと、なぜ分かったのかは分からない。
不気味な咆哮を上げながら、シャンタク鳥の上で、それがとうとう本当の姿を現したのを、

 

わたしは、

 

見てしまった・・・


 

 

 

 

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