Upside down その26


「たこ焼きは、ウチのおとんができる唯一の料理でな、小さい頃はよぉ作ってくれたもんや。」
唇だけで微笑みながら、理美ちゃんが虚空を見つめる。
「まぁ、小4の時にはおとんは海外行ってもうたから盆と正月くらいしか会えへんかったけど、それでも帰って
来る度に作ってくれたんが嬉しかった。」
そう・・・理美ちゃんにとってたこ焼きは、慣れ親しんだものであり、思い出の味でもあるのね。
理美ちゃんの事がまた一つ、新たに判ってなんだか嬉しい。

「でも・・・今は、怖いねん・・・」
急に抱き着いてきた理美ちゃんの表情は、私の胸に埋もれて見る事が出来なかった。
「怖い・・・?」
発せられた言葉の真意を掴み兼ね、おうむ返しに問いかける。
「もし、おとんもおかんも日本に帰ってきたら、ウチは大阪に戻らなあかんかも知れん。・・・そしたら、ウチは、
氷音先輩、ウチは・・・」

そこまで言われて、やっと気が付いた。
「それは・・・いつ、なの?」
理美ちゃんの頭を撫でながら僅かに震える小さな身体を、私は必死に抱き締める。
「わからん・・・わからんけど、いつ帰ってくるかわからんから余計に怖いんや・・・」
ご両親が帰ってくるのは、本来なら喜ばしいことのはず。
でもそれは、私との別れに繋がるかもしれないという風に、理美ちゃんは思っているのだろう。
その答えは私にはきっと解らない事だけど、反対に、この言葉と行動の意味はきっと私にしか解らない。
「理美ちゃん。 私の事でそんなに悩んでくれて、嬉しい。」
私の腕の中にある理美ちゃんの旋毛に頬を寄せ、愛しさを全身で受け止める。

「氷音先輩・・・」
潤んだ瞳を上目遣いで向けられ、胸の奥に渦巻いていた想いが螺旋となって一気にこみ上げる。
「理美ちゃん・・・悩みとか、心配とか、私で良かったら力になってあげたい。」
「氷音・・・先輩・・・」
「だってね、私はいつも理美ちゃんから元気をもらってるから。理美ちゃん、好きよ。ありがとう。」

たぶん微笑んだはずの私の表情に安心したのか、一筋溢れた涙を拭いもせず、理美ちゃんは瞼を閉じた。
そして何も考えず、自然と私は身を屈めて唇を重ねる。
誘われるように私も目を閉じながら、唇を押し付けた先に待ち受けた柔らかな反発。
上唇にあたる鼻息が、私の心臓の鼓動を吹き飛ばした。
緊張だけじゃない胸の高鳴りが奏でるリズムに乗るように、理美ちゃんの唇を何度も啄む。

「ちゅ・・・ちゅ・・・」
理美ちゃんの下唇を吸う音がダイニングに小さく響く。
たこ焼きの匂いが充満しているこの空間も、これだけ密着すると理美ちゃんの香りに包まれているよう。
甘い南国の香りが、私の心まで抱き締めているみたい。
「ん・・・ちゅ・・・」
音にならない呼吸の塊が喉の奥からこぼれて、どちらからともなく目を開ける。

「氷音先輩、ありがとう。 初めて会うた時から氷音先輩は優しくて、そんで今も優しくて、嬉しい。」
呼吸が届くほどの距離、顔を離した理美ちゃんの微笑みは、いつものそれとは少し違った気がした。
「当たり前じゃない。好きなんだもの。」
自分でも信じられないほど、素直に言葉が流れ出す。
なぜならきっと、それには揺るがない信念があるから。
間違わないか不安な日常会話や質問への返答と違って、絶対に、間違いも、不安もない、本当の私の心から
生まれ出た言葉だから。

「氷音先輩、苦しい。・・・ウチ、嬉しすぎて苦しい。もう、どうしたらええねん!」
半分エプロンに隠れたリボンタイに額を押し付けるように、理美ちゃんは体を震わせながら私を抱きしめる
腕の力をさらに強めて、泣き続けた。
「理美ちゃん。大丈夫。・・・私が、受け止めてあげるから。」
理美ちゃんの後頭部をそっと撫でながら想う。

この愛しさがちゃんと届きますように。

ずっと、ずっと・・・

 

 

 

 

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