Vier mädchen その16


「ふぅ・・・」
一人で入るには余りにも広すぎる浴槽に浸かると、小さく溜息がこぼれる。
庭を一望できるガラス張りの壁はイワブチインダストリーの技術を結集させた超偏光ガラス製。
明るい方からは反対側が見え、暗い方からは反対側を見る事が出来ないという、いわゆるマジックミラーとは
真逆の性質を持っている為、晴れた今宵の月がまるで浴室の背景のように浮かんでいる。

今日の疲れが適温のお湯に溶け出していくような感覚に、目を閉じて身を任せる。
隣のジャグジーで水が動く音と相まって、ゆったりとした気分になっていくのが心地よい。

和桜が・・・
私にだけ別人の様に接してくるのに気付いたのは、高校入学後まもなく行われた生徒会の顔合わせの時だった。
生徒会長としての彼女は判断力、決断力、他助能力、管理能力、いずれも申し分なく、物腰は丁寧で柔らかい。
渡り廊下で彼女に思わず声を掛けてしまったのは、もしかしたら私の直感が彼女の優秀さに反応したのでは
ないかと今では思っている。
・・・いや、そう思う事にした、かしら。

第一印象からは想像もつかないリーダーシップに私は一瞬、同一人物なのかと驚いた程だったけど、どうやら
『学校生活中の和桜』は今の『生徒会長の和桜』として、周囲には認識されているようだ。
和桜の同級生に聞いた話では、入学試験3位で高校から入学、親しみ易い性格と優しさで誰からも好かれていて
一部では『淑女のお手本』とまで言われていたそうだ。

だからこそ、わからない。
何故私にだけ、あんな弱気でネガティブで愚かな態度を取るのか。
しかもそれは私と二人きりの時に限られたことで、他に誰かがいる時は決してそんな事はしないのに。
からかわれているという考えも思い浮かんだが、そんなに性格の良い人間がからかったりするだろうか。
あるいは、本当はひどい人間だから二人きりの時を狙って来ているとか・・・
んー・・・ 私には、そうは思えない。

「失礼致します。」
閉塞した思考の暗闇の向こうで浴室のドアが開く音がして、最も聞き慣れた声にゆっくりと目を開ける。
「紫鈴様。 お背中を流しに参りました。」
眼鏡は掛けず、長い髪は後頭部でお団子にしたままの一糸纏わぬ文兎が、私の前で手を差し出した。

「文兎、以前から言ってるはずよ。 ここでは、そんな堅苦しい言葉遣いはやめてってね。」
差し伸べられた手を掴み、浴槽に引きずり込まんばかりの勢いで引っ張る。
「あっ! 申し訳ございません。 ですが、これもお勤めの一つでございます故・・・」
目を逸らして告げられた言葉に苛立ちを覚え、私は握った文兎の手に強く爪を立てる。

「仕事じゃなかったら、こんな事したくないってコト?」
私は手を握ったまま立ち上がり、文兎の瞳を鼻が触れそうな距離から覗き込む。
湯気さえも入り込めない距離で、二度だけ、文兎の目が揺れた。
「紫鈴様。 そんな仰り方は、意地悪すぎます・・・」
悲しげな声をこぼした文兎の手を開放し、カランの前に椅子を置いて腰掛ける。

「ふふ、ごめんなさい。 今のは私が悪かったわ。」
曇りひとつない鏡越しに、文兎が右手をさすりながらやってくるのを確認する。
「いえ・・・ では、お背中から失礼致します。」
文兎はボディソープをスポンジで充分に泡立て、私の背中を丁度いい力加減で擦り始める。
また一つ、疲労が剥ぎ取られて行くようで、実に心地よい。

「文兎。 いつの間にか上手になったわね。」
「光栄です、紫鈴様。 さぁ、おみ足をこちらへ。」
少し高くなった文兎の声に導かれるように後ろを向き、正座している文兎の太腿に足を乗せ両腕を差し出す。
「私は文兎に身体を洗うのをお願いする機会が少なかったと思うけど、誰かに教えられたの?」
私の腕を慈しむように洗う文兎に乗せた踵をグイグイ押しつけるようにして問い質す。
「いいえ、紫鈴様。 わたくしは紫鈴様専属ですので、他のどなた様の湯浴みにもお供した事はございません。」

私に傅く文兎の真剣な表情に、とくんと鼓動が一つだけ跳ねた。
薄くアイシャドウの載った切れ長の目、柔らかな曲線を描くよう手入れされた眉、ハイライトがすっと通った鼻、
ベージュピンクのリップで整えられた唇、きちんとケアされている頬。
素材が良い上に化粧上手だから、文兎はいつも美人。
まぁ、私より10も年上なんだから化粧くらい上手くて当然かしら。

「そう、ならいいの。 文兎が誰かに汚されていなくてよかったわ。」
湯に浸かることもなく少し冷たいままの文兎の肩に手を置いて微笑みかける。
「紫鈴様・・・ お気遣い頂き恐縮です。」
私の表情に安心したのか、小さく頭を下げた文兎は私の左脚を抱え上げてスポンジを滑らせる。

そんな文兎に、私は問いかける。
「ねぇ、文兎。 あなたは誰かと付き合ってた事はある?」


 

 

 

 

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