Vier mädchen その23


穏やかな入り江のちゃぷちゃぷという波音が、開け放した窓の向こうから微かに耳に届く。
入り江側の部屋のテーブルからは、静かな海面がいたずらに月明かりを乱反射しているのが一望できる。
昼間、和桜とひたすら遊んだせいか、疲労の蓄積した脳には本の内容がほとんど入ってこない。

結局、遊びまわっているうちに今回の目的を切り出せぬまま、こんな時間になってしまった。
今から訪ねて行くのも・・・もう寝てしまっていたら悪いし。
机に置いてある水のグラスを一気に呷り、私はもやもやした気分を抑えようと思案する。
お風呂に入れば気分が変わるかもしれないと思ったけど、各部屋に備え付けのバスルームのバスタブに今から
湯を張るのは、待ちきれない。

仕方ない・・・
溜息がこぼれるのと同時に、私は本を閉じて椅子から立ち上がる。

電気が消えてがらんとしたリビングを玄関とは反対へ進み、大きな窓をスライドさせて踏み出した中庭は、
風も遮られて波ひとつないプールの水面が天上の月を奥深くに抱きかかえているように見える。
その縁に身を屈めて手を浸すと、一陣の波紋が真円の月を歪めて飲み込んでしまう。
何とはなしに空を見上げれば、そこには傷一つない満月が素知らぬ顔で佇んでいるだけだった。

和桜が・・・良かったら使ってと言ってくれたまま、左手首に付けていたシュシュで無造作に髪をまとめ上げる。
3つ並んだサンラウンジャーのうちの一つに、夜着として羽織っていたローブを放って、スリッパを脱ぎ捨て、
足の裏に触れる芝生の感覚に暫し浸る。
現在、島全体の気温は23℃、湿度52%に調節されて●●●●●いて、素肌に触れる空気は実に快適。
イワブチの技術試験場を兼ねたこの場所の首尾は上々のようだ。

下着をまとめてローブの上に投げた私は、なるべく音を立てないようゆっくりと体をプールへ滑り込ませた。
島温よりはわずかに高い水温が、疲れた身体には少し、冷たく感じた。
もはや跡形も無く、その明かりを乱反射するだけとなった水面の月が、私によって静かに撒き散らされて行く。
髪が極力水に付かないよう、顔を上げたまま平泳ぎでプールを何度か横切るうちに、少しずつ頭の中が明晰に
なっていくような気がする。

「紫鈴様。」
リビングから現れた人影がこちらに近づいてきたのは、何度目の往復を終えた時だったか。
白いパジャマで月光を浴びる文兎は、バスタオルを携えたまま私が止まるのを待ち、一声私の名を呼んだ。

「文兎。」
足をついて泳ぐのを止め、私は声の主を見上げる。
「じき、日付が変わるお時間です。 眠れないのですか?」
「えぇ、ちょっと、ね。」
プールの壁に背中を預けるように向きを変えると、見上げる対象は月になった。
僅かな水音が、そこに向かって吸い上げられていくように私の耳から離れて行く。

「何かお持ち致しましょうか?」
たっぷりと間があってからの気遣いに、私は首を振る。
「大丈夫、バスタオルありがとう。 持って来なかったから助かったわ。」
「お客様もおいででございます。 あまり夜更かしはなさいませんよう。」
「そうね。もう少ししたらシャワーを浴びて寝る事にするから。」
だからもう行っていい。
言葉の語尾からそう察したのか、バスタオルをガウンの傍に置いて、さくと芝生を踏みしめながら、文兎は
私の背後からリビングへと戻って行った。

文兎は、ときに不思議なくらい私の行動を察してくれる。
今だってそう、私が泳いでいた十数分の内に気付き、バスタオルを持って来たくらいだから。
私が立てるプールの飛沫の音が、何十mも離れた、紫外線カット・防音・高耐久のイワブチガラスを隔てた
部屋の中まで聞こえたとは思えない。
距離や障壁さえも超える絆、なんて漫画じゃあるまいし。
彼女は優秀な家政婦、ただそれだけ・・・

目を閉じて、辿り着いた結論をプールに溜息として投げ捨てる。
ざばぁと音を立ててプールから上がった私は着ていた物とバスタオルを手に芝生を横断し、中庭とリビングに
隣接したシャワー室へと向かう。
夜の空気が、濡れた身体の熱を奪って行く。

・・・・・・?

ふと、リビングの窓の内側に、影が動いたような気がして足を止める。

きっと文兎が、私が泳ぐのをちゃんと止めるのか気にしてくれていたのだろう。
中庭の土に汚れた足を流すため、私はシャワー室のドアを開けた。


 

 

 

 

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